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第1640話

「でも……俺、このままなのはさすがに情けなくて……」 「いいんだよ、お前はそのままで。ヴァルハラ暮らしが長いと、自然と人間らしい感情も薄れていっちゃうからさ。そうやって些細なことで悩んだり泣いたりできるのは、魂が瑞々しい証拠だ」 「……だけど……」  それでも納得できないでいると、兄は長い両腕でこちらを包み込んできた。甘くてほんのり野生っぽい香りに、胸が締め付けられるように痛む。切ない。 「私がおかしくなっても、お前だけはいつも通りの『アクセル』でいて。お前がお前でいてくれる限り、私は必ず戻って来られる。だから安心して」 「兄上……」 「ところで、今は何を作っていたの? 随分たくさん食材切り刻んでるみたいだけど」 「……あ」  我に返り、アクセルは慌てて鍋の火加減を調整した。危うく吹きこぼれるところだった。  最後に入れる予定だった野菜をまとめて鍋に入れ、軽く煮込んでから火を止める。 「猪のシチューだよ。せっかくだから、兄上の好きなものを全部作ろうと思って。どうせステーキだけじゃ物足りないだろう?」 「おお、さすが我が弟。私の胃袋をよくわかってるね」 「そりゃあ、兄上のことだしな……」 「そうやって言わなくてもわかってくれるところも好き」  その後は完成した料理をテーブルに並べ、ピピも含めて三人で仲良く食事した。  兄は相変わらずの食欲で、用意しておいたステーキやシチューをほとんど一人で全部食べてしまった。  アクセルはその様子を微笑ましく眺めながらも、「この食いっぷりもしばらく見られなくなるのか」とやや寂しく思っていた。 ***  翌朝。アクセルはいつも通り起床して、何気なく隣のベッドを見た。 「え……」  既に兄のベッドは空っぽになっていた。普段はアクセルよりやや遅く起きるのに、今日はピシッとベッドメイクまで完了している。  急いでベッドから下り、家中を歩き回ったがやはり兄の姿はなかった。  ――なんだよ、もう出掛けちゃったのか……。

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