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見えない愛〜アディクション・ルージュ番外編SS〜

 朝から神楽坂の姿が見えない。モーニングコールもなければ、目覚めのアーリーモーニングティーも運ばれて来ない。正式には、別の使用人がモーニングコールも紅茶も運んできたから不自由はないけれど……。 「なぁ、神楽坂どうしたんだよ」 「えっと……神楽坂さんは……しばらくお暇をいただくと……」  どうも歯切れが悪い使用人は、この屋敷に来てまだ一年も経ってない青年、目黒だ。 「目黒、お前……神楽坂に口止めされてないよな?」 「な、ないです、絶対にないですっ!」  紅茶を注ぐティーポットを持つ手は小刻みに震え、明らかに動揺している。わかりやすい奴だと思いながらも、知らないフリをしてティーカップを受け取る。ダージリンティーを一口飲んで、いつもより渋くぬるいと感じる。 「ぬるいぞ、入れ直せ」  渋いと言わなかったのは目黒にはわからないと思ったからだ。多分、これは神楽坂にしかわからない。 「まったく……」  いったいどこに行ったんだ、神楽坂は。不味い紅茶を目黒に突き返すと、今にも泣きそうな顔で平謝りされた。 「来客の時にこんなものを出したらクビだぞ。神楽坂は何を教えたんだ」 「神楽坂さんは悪くないです。自分が……」  そんなことは指導者である神楽坂の責任だと言いかけてやめた。目黒に言っても意味がないからだ。姫宮家の使用人を統括している神楽坂は他にも仕事は多い。来客のスケジュール管理、屋敷で働く使用人の管理に目黒のような新人教育。それに加え、俺の世話……。 「再度教えてもらえ。紅茶はもういい。風呂に入るから準備をしろ」 「か、かしこまりました」  ベッドから降りてバスルームに向かう気になったところで、また思ってしまう。神楽坂ならすかさずガウンを着せてくれる。なのに、目黒は寝室からドア一枚で隔たれたバスルームに消えたままだ。 「はぁ……」  ベッドの端に腰掛けバスルームに背を向けるとため息を吐く。すると、言葉にし難い感情が押し寄せてくる。怒っているわけではない。いや、怒りももちろんある。けれど、それだけではない。 「早く帰って来いよ、バカッ……」  ポロリとこぼれた本音は遠くに聞こえる水音と一緒に掻き消された。数十分でこれだ。神楽坂が帰って来なかったらと思うと、また気持ちがザワついていく。 「目黒!」  呼んでもすぐには反応しないのは水音のせいだろう。呼ぶことを諦めガウンに手を伸ばすと、それは先に取り上げられてしまった。ゆっくりと目を閉じると再びため息を吐く。 「……着せろ」  白い手袋に黒の燕尾服。男は無言で俺の背後にまわると何事もなかったように俺にガウンを着せてくれた。 「どこで何をしてた、神楽坂」 「申し訳ございません、草花に水を撒いていて遅くなりました」  主よりも草花の方が大事なんて聞いて呆れる。 「俺は草花以下か」 「相当、お怒りですね」  この場に及んで白々しい言い訳を並べ、涼しい顔をしている神楽坂が憎たらしい……と、同時に安堵している自分もいる。 「知るかっ。朝から不味い紅茶を飲まされた。お前は目黒に何を教えてるんだ」 「申し訳ございません、わたくしの責任です」 「それに、渋かった……」 「梨人様の味はわたくしにしか出せませんからね」  妙に厭らしい言い方をされ、ガウンを着せたあとの指先が首筋を辿る。 「おい、やめろ……」  目黒がいつ戻ってくるかもわからない。なのに、神楽坂の指先は首筋から頬へと移動すると親指の腹でそっと唇を撫でた。 「目黒には裏口から帰るように指示を出しました。今はもう通常業務に戻ってるはずです」  バスルーム横の脱衣所から外に出られるドアはもう一つある。おそらく目黒はそこから戻ったのだろう。 「絶妙なタイミングで入れ替わったな」 「ありがとうございます」 「褒めてねぇよ」  目黒が戻ったということは、今は俺たち二人きりなわけで…… 「さて、紅茶を入れなおしましょうか」 「え……」  いつもならそういう流れになるのに今日はあっさりと手を引かれた。 「どうしましたか、梨人様」  一人でそんな気分になってしまったのが恥ずかしくて、咄嗟に顔を背ける。やめろと言っても強引に抱きしめくちづけるくらいは日常茶飯事なのに、そんな気配は微塵もない。 「別に、なんでもねぇよ」 「相変わらずわかりやすいですね」  いつも先の先まで見越して動く神楽坂には全てお見通しなんだろう。俺がこんな気持ちになるのも、不安になるのも……神楽坂が欲しいと思うのも。 「お前、ホントムカつく」  俺の悪態にも表情は微塵も変わらない。そして平然とした中に意地悪さを滲ませると、俺たちの立場は逆転する。 「欲しいなら欲しいと言ってください」  誘導尋問のようにこうして毎回言わされるのだ。 「……しろ」 「何を?」  いつの間にか前に向かうように腰を下ろした神楽坂と視線が絡む。真っ直ぐに、一点の曇りもなく俺を見つめる黒い瞳に吸い寄せられるように手を伸ばす。 「その唇で……」  人差し指と中指の腹で唇をなぞると、ゆっくりと続きを口にする。 「……くちづけろ」  フッと息を飲む神楽坂が俺の手を取り引き寄せると身体ごと抱き留められ、声を上げる前に顎を取られ唇が重なった。 ** 「結局、なんで目黒だったんだよ」 「あ、朝ですか?」 「そうだよ」 「梨人様のお世話をしたいと言い出したので、やれるもんならやってみろ……と任せましたが、やっぱり無理でしたね」 「やれるもんならって、お前キャラ変わってないか?」 「そんなことはないです」  目が笑ってないのが恐ろしいけど、結局は水撒きは本当だったらしい。 「暫くは言って来ないでしょう」 「何を」 「美人な主を持つと大変なんです。まぁ、誰にも渡しませんけど」 「なんだそれ」  それから目黒が世話をすることはなくなった……が、時々視線を感じるのはどういうことか俺にもわからない。 END

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