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3一8
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怜には、ノートを忘れて一旦家に戻っていると言っておいた。
訝しむ怜に、心の中で「嘘吐いてごめん」と謝りながら電話を終えて、心苦しさで由宇はスマホの画面を見詰めて少しの間固まる。
改造車だからなのか、やたらと大きなエンジン音で車内は無音とは程遠く、放心する間もなく由宇の気もそぞろであった。
「どこ行ってるの」
「どっこも。 とりあえず走ってるだけ」
「…………話、あるんだけど」
「いいよ、話せば。 聞いてっから」
一時間というタイムリミットの中で、由宇はこのチャンスを無駄にしないために当初の目的である婚約者の話を切り出す。
すべて知っている様子の橘の横顔を、少し軽蔑の眼差しで見てしまうのは致し方ない。
「橘先生の婚約者が怜のお父さんと不倫してるってほんとなの?」
「ほんと」
「な、っじゃあなんでやめさせないんだよ!? 知ってるんなら止めろよ!」
簡単に頷いた橘の神経を疑う。
由宇は今日まで、幾度怜の寂しそうな表情を見てきたか分からない。
まだまだ数カ月の付き合いだが、毎日連絡を取り合う怜の人となりは十分過ぎるほどに分かっていて、突然家族がバラバラになった戸惑いと怒りは言葉に出来ないはずだ。
それを見て見ぬフリをしていたと知って、信じていた橘を心底見損なったし、裏切られた気持ちにもなった。
「婚約者っつっても親からそう言われてるだけ」
「それでも婚約者なら言うべきだろ! 怜の家族がどんな目にあってると…!」
「…分かってる。 一応それで俺も動いてる」
「動いてるって……」
「探してたんだよ、アイツを。 ひょろ長の親父と雲隠れしてやがるから探すの一苦労だった」
探していたのは、橘の婚約者だったらしい。
知っていたけれど、咎めようにもそんなに親しい間柄ではないと聞けば、由宇の橘への憤りも少し落ち着いた。
彼の口振りからすると、どうやらその相手とは政略結婚のようだ。
(ん、待てよ、一苦労だった…って事は…)
「婚約者の人、見付かったのっ?」
由宇が同乗しているからなのか、煙と匂いの少ない電子タバコにいつの間にか切り替えている橘が「あぁ」と頷いた。
「もう会う段取りは付けてある」
「会う段取り………」
「もうすぐ解決するからそんな心配しなくていーよ。 ただな、ちょっと厄介なのが…」
橘は行くあてもなく走っていると言っていたが、車は海が綺麗に見える海岸沿いの駐車場に停まった。
荒々しい運転だが、一度で駐車を決めるところは上手いなと思う。
タバコを灰皿に捨ててしまうと、橘がシートに体を預けて目前の水平線を眺めた。
「…ひょろ長の母親の事なんだよな」
「あ…うん、今入院してるんでしょ?」
「話し合ったところで恐らくアイツらは別れねーと思う。 そうなったら母親の方がやべぇ」
夕暮れ時でキラキラと輝く水平線を見詰めたまま、橘がボソリと独りごちた。
由宇はそれには目もくれず、橘の横顔をジッと見て身を乗り出した。
「やべぇって…!」
どういう意味の「やべぇ」なのか分からず、それはとても嫌な予感しかしなくて心がザワザワしてきた。
「今でさえ隔離病棟なんだよ。 話し合ったところで母親に良い知らせを持って行けるわけじゃねー。 そうなったら自殺未遂でも起こすんじゃねーかと」
「自殺未遂!?」
「これひょろ長には言うなよ。 絶対に。 俺が何とかすっから」
やはり嫌な予感は的中した。
それほど気に病んでいるとは知らなくて、あまりにも重たい現状に由宇の視点がウロウロと落ち着かない。
突然旦那が見ず知らずの女に奪われたとなると、そうなってしまってもおかしくはないのだろうが、そうなると怜はどうなるのか。
「橘先生は怜のお母さんが入院してる病院、知ってるの?」
「知ってるも何も、週一で行ってる。 半年前から」
「えぇぇ!?」
「だからお前、声でけぇって」
「ご、ごめん………ごめん…」
橘は左耳を塞ぎながら再びシートに体を預けて、驚き続ける由宇にチラっと視線を寄越した。
ハイエナに見付かった小さな獲物のような気分で、由宇も負けじと見返す。
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