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3一9

3一9 橘は正義だった。 裏切られた気持ちを抱えて軽蔑までしていた由宇も、今の話を聞く限りでは橘には一切非がない。 しかも、おかしくなった母さんを見たくないからと息子である怜でさえ病院へと足が向かないというのに、橘が自らお見舞いに行っているなど単純に凄い事だと思った。 密密に婚約者と怜の父親を探していた事も同様で、橘はひっそりと解決に向けて動いていたのだ。 由宇の心が落ち着かない。 どんな気持ちでいたらいいのか分からなくて、水平線を眺める橘の高い鼻筋を見詰めた。 「ひでー話だよなー」 由宇の視線を感じたのか、ふと少しだけ伏し目がちになった橘が唇の端を上げている。 苦々しいその表情からは、普段の飄々とした余裕を感じない。 自らの婚約者が引き起こした顛末を橘自身がすべて終わりにしなければという思いは分かるが、怜の母親が危ない状況ならば一体どうするつもりなのだろう。 「…………先生、どうするつもりなんですか」 「………とにかく丸く収めるしかなくね」 「丸く収まらなかったら…」 「それは考えねー事にしてる。 何とかうまくいく方に持ってくんだよ。 ……アイツと俺との結婚を早めてもいいしな」 今度こそ笑みを溢した橘の横顔があまりに神妙過ぎて、由宇は言葉を失った。 ただでさえ政略結婚のようなのに、他人との諍いのせいでさらに気持ちの無い結婚をしようとしているなんて、まだまだ高校生になりたての由宇には想像も出来ないほど大人の世界だ。 とはいえ、怜と母親がこれ以上苦しまないようにするためには、当人達が現状を把握して別れなければ丸くなど収まらない。 これ以上、一つの家族を振り回さないでほしい。 みんなが不幸になっている事にたまらなくなって、由宇はポロポロポロと涙を溢して泣いてしまった。 (怜のお父さんと先生の婚約者さんは愛し合ってるのかもしれない、だから別れないかもしれないんだ。 でもそれだとお母さんと怜はずっとツライままで……それを解決するために先生はしたくもない結婚をする………。 別れたらお父さんと婚約者さんの愛はどうなるの…?) 何をどうしても誰かが不幸せだ。 その物事の複雑さと、人の思いの果ての無さに由宇は涙した。 「まーた泣いてんの。 ……来いよ」 綺麗に波打つ水面と水平線をぼんやり眺めていた橘が、グスグス言い始めた由宇に気付いてソッと抱き締めた。 「なんでお前が泣くんだよ。 泣きてーのはひょろ長一家だろ」 「だっ、だって…………みんな幸せじゃないから………っ」 「みんなが幸せになるって結構難しい事なんだぞー」 「……うん、っ……そうみたい………」 抱き締めてくれた橘のネクタイで涙を拭うと「おい」と窘められたが、 気にしないで由宇はそのまま広い胸を借りてしばらく泣いた。 怜が可哀想。家族も。 たった一人の存在が現れたばかりに、家族みんながバラバラになって、橘すらも無理強いさせられようとしているなんて。 由宇には何も解決策が思い付かない。 何とかすると言っていた橘も、途方に暮れているのではと思った。 (だから先生、タバコ吸う時いっつも空見上げてたんだ……) これからどうしようと考えあぐねて。 そうなると途端に橘の事も可哀想になり、結果やっぱりみんな不幸じゃないかと由宇の涙は止まらなかった。 そんな思いを知ってか知らずか、橘はいつまでも泣き続ける由宇の背中をずっと擦ってくれている。 マイペースで横着な強面教師だが一つ分かった事は、改めて、橘は正義であるという事。

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