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5一5
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目覚めると、由宇の体は完全に橘の両腕でロックされていて、身動きすら取れなかった。
起き抜けで喉が乾いたので、由宇は無理やり腕から抜け出るとはだけたバスローブを戻しながら冷蔵庫からいつもの麦茶を貰った。
「綺麗な庭だなぁ……」
ちょうどキッチンから、大邸宅に相応しい広大過ぎて森のような庭が見えて、ポツリと独り言が出てしまう。
朝の陽の光に照らされて、何とも美しい庭園だ。
こんなにも広大だと、管理するのも大変そうだなと余計な事を思っていると、ベッドルームから全裸の橘が起き出してきて、朝から絶叫した。
「わぁぁーーっっ!!! 先生、ちょ! 脱げてるよ、全部! バスローブどこいったんだよ!!」
「あ? ……朝はそのテンション勘弁しろ、無理。 そのテンションは無理」
「俺も朝から先生の全裸を拝むのは無理!! ったくもう!」
由宇は極力そのご立派な体躯を見ないようにしながら、ベッドルームへと小走りで戻った。
ベッドの足元で雑に放られたバスローブを発見すると、直ちにそれを持ってリビングへと戻る。
だが橘はすでにソファに腰掛けて寝起きの一服を始めていて、由宇はまたも絶叫した。
「あぁーー!! 全裸で座るなよ! はい、立って! これ着て!!」
「うるせー…朝のお前の雄叫びは耳がどうかなりそ…」
「生徒の前で無防備過ぎるだろ! 先生の自覚を持て!」
眉間に皺が寄りっぱなしの橘を無理矢理立ち上がらせてバスローブを羽織らせると、朝は特に機嫌の悪そうな人の隣には座りたくないとダイニングの方に腰掛けた。
橘はただでさえいつも三白眼なのに、朝は見えているのかというほど目が開いていない。
仏頂面で電子タバコを吸う横顔はいつも通りかっこいいのに、機嫌の悪さも手伝って悪魔を通り越して魔王のようだ。
お茶を一口飲んで綺麗な庭を眺めるといくらか落ち着いてきて、由宇は朝の挨拶がまだだったと再び魔王を見た。
「………あ、先生」
「何」
「おはよ」
「…………………おはよ」
一瞬だけ瞳がわずかに開いたがすぐに細くなった。
小さく応答してくれた事に気分が良くなり、ゆっくり魔王の横へと座り直す。
「……それちょうだい」
「え? あ、お茶? どうぞ」
「ベッドにあるスマホ持ってきて」
由宇が飲んでいた麦茶を半分ほど飲んで電子タバコを灰皿に捨てると、橘は背凭れに背中を預けて由宇に仏頂面を向けた。
昨日の事を話したかった由宇は、いま話すチャンスかな?と切り出そうとしたのだがそれは叶わない。
「…またパシリにっ。 はいはい、行きますよ、行けばいいんだろ〜」
橘のマイペースさにもいい加減慣れた。
またもベッドルームへと舞い戻ってきた由宇は、昨日は暗くてよく見えなかった室内をぐるりと見回す。
夜とは打って変わって明るいため、思ったより広さのあったベッドルームは書斎としても使っているらしい。
木製のデスクセットの横には本棚があって、そこには精神異常をきたした者やその家族が読むような本が三段に渡ってずらりと並んでいた。
(先生……これ全部読んで怜のお母さんのお見舞い行ってたんだ…)
この件に生半可な気持ちで関わっているわけではない事を悟らせるには十分で、橘の意外な一面を見て尊敬の念すら抱いた。
「スーマーホー」
ぼんやり本棚を眺めて感心していたらリビングからこんな声が聞こえて、「尊敬」は言い過ぎだったとすぐに思い直した。
「ほんともう…訳分かんない先生だなー。 ……わっ」
枕元に転がっているスマホを見付けてそれを手に持った瞬間、ブルブルと振動を始めて着信を知らせた。
「先生、電話みたいだよ」
「あ? 誰」
「見ていいのかよ。 ……樹…いつきさんって読むのかな?」
相手が誰だとか知られたくないかと思って、わざとスマホを裏返して持ってきたのに。
表示された名前を言うと橘の片眉が上がった。
「あぁ、樹さんか。 貸して」
由宇が居るのが分かっていてその場で電話を取ったので、いそいそと橘の隣に座って大胆な盗み聞きを敢行する。
「はよーっす」
『出んの遅せぇよ。 まーた女と居んじゃねぇだろうな』
「残念ながら今日は女じゃねーんだな、これが。 朝からどしたんすか」
珍しい。
あの橘が気持ちばかりの敬語を交えて喋っている。
電子タバコを咥えた橘は背凭れに寄りかかって足を組んだ。
男前だからかいちいち絵になるその姿はいいが、あまり離れると会話の内容が聞こえないので、由宇はグッと橘に寄り添って漏れてくる相手の声を聞く。
『それがさ、昨日歌音が本宅に戻った後ヤバかったらしいんだけど、聞いた?』
「いや、聞いてねー」
『奇声上げて家中走り回ってたらしい。 俺ん家までその声聞こえてきたから、近所から通報されてサツ来て大変そうだったぞ』
「ふーん」
『ふーんってお前なぁ。 風助が園田先生の事で動いてんの知ってんだからな? 歌音どうするつもりだよ』
「俺はどうもしねーよ。 園田さんは復縁を望んでるらしいからそっちアシストするだけ。 歌音の事は親が何とかするだろ」
『風助の事だから何か考えがあるんだろうけどな。 ま、この事で歌音との結婚が早まっても問題ねぇだろ?』
「……そうだな、問題ねー。 ってか樹さん仕事休みなんすか?」
『休みなわけねぇだろ。 今絶賛仕事中よ、俺。 もう少しで局着くから、またな』
「お疲れーっす」
吸い終えたタバコを灰皿に捨てる橘の横顔が、じわっと苦笑を浮かべているように見えたのは気のせいだろうか。
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