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6一6

6一6 怜とのやり取りは、初日ともあって軽めにしておいた。 橘が戻ってくるまでの時間内で、何とか怜の過去を探る入り口までは来れた気がする。 特に用事はないけど、母親が今日も機嫌が悪くて家に居づらいと泣きべそスタンプを交えて送った。 怜は、自身も寂しさを抱えているにも関わらず由宇に励ましのメッセージをくれて、『週末だけじゃなくてしばらくウチに居たらいいのに』と付け加えて由宇を舞い上がらせた。 怜は本当にいい友達だ。 家族が突然バラバラになってひとりぼっちな怜にとって、入学式で由宇に見せた何気ない素振りはようやっと出した勇気だったように思う。 由宇も同じく背中に哀愁を漂わせていたせいで、誰とも関わりたくなかった怜の関心の引いたのは、きっとすべて巡り合わせだったのだ。 こうしてなんの因果からか、橘と協力する事になっているのも、すべて。 「由宇トロ、送れたか?」 十五分で戻ると言いながら三十分はかかってようやく橘が戻ってきた。 運転席に座るなり、電子タバコを吸い始めて窓を開けている。 「あ、おかえり。 送れたよ。 今日はひとまずおしまい。 明日も自分で何とかやってみる」 由宇を気にして、そんなに匂いのない電子タバコの時も橘は自ら窓を開けてくれる。 今までそんな事気にもしていなかっただろうに、学生である由宇を何も言わずに気遣ってくれる優しさに喜びを覚えた。 目付きの悪さも、そういう顔なんだと分かってしまえばなんてことはない…と思い、橘の顔をチラと覗き見る。 (いや、やっぱ怖いな。 …この目付きだけは慣れない…) タバコの煙で目を細めている表情は、初対面の印象と何ら変わらずだ。 ただの一生徒にぐちゃぐちゃだったネクタイを結び直してくれていた事を考えると、あの日も橘は橘だった。 口の悪さから垣間見える優しさを知っている今なら、あんなに怯えて逃げ出しはしない。 どんなに悪態をつかれても、ありがとう、と言えそうだ。 (これ以上ふーすけ先生に面倒掛けるのはよくないよな) 今日の二言レクチャーで「自分に置き換えて考えてみる」と教わった事で、そうする他に由宇が頑張れそうな道はないと悟ったから、放課後も橘の時間を取らせなくて済みそうだ。 仮にも数学教師で、一年の全クラスと二年の理系クラスで数学を教えている橘の貴重な時間を割くことは、由宇にはもう無理そうである。 タバコを吸いたくてジリジリさせてしまうのも気が引けるし、何より手間取らせて面倒だと思われるのも嫌だった。 「そ。 ん、じゃあ放課後は来ねーの?」 「うん、大丈夫そうだから」 「じゃ、ひょろ長の件はトロに任せるとして、数学やっか」 ついにトロとしか呼んでない!と憤慨する前に、橘自らがそんな提案をしてきて驚いた。 大方は橘のために由宇は断ったのだが。 「えっ? いや、でもまだ解決してな…」 「医大、行くんだろ?」 「んっ?? 先生、ちょっ、顔近い!」 ふいに橘が鼻先が付きそうなほど顔を近付けてきていた。 それにも驚いて体を引こうにも、伸びてきた橘の手のひらで後頭部を押さえられていて動けない。 離れられたのは一瞬で、またどんどん橘の顔は迫ってくる。 (えっ? なに、えっ? これどういう状況!?) 「いっこの事しかできねーでも、お勉強はしとこーや」 「…………っ?」 橘が少し顔を傾けた。 視線は由宇の唇に注がれていて、どういう状況かと心が大慌てだった由宇もついに察する。 (こここここれ、キスされんのっ!?) つい昨日、下半身を弄ばれた事を思い出してしまう。 あれは疲れさせてオヤスミ、って意味ではなかったのか。 キスを迫ってくるなど、もしかして先生は由宇を………。 そんな極論に達して心臓がドキッと跳ね上がり、ギュッと瞳を瞑った由宇はその時を待った。 初めてのキスが悪魔顔の男だなんて想像もしていなかったけれど、橘だったらいい。 自分がそういう対象で、もし橘がしたいなら、全然構わない。 (…………………???) 真っ暗な視界の中、ドキドキが聞こえやしないかと待つもその時はなかなか訪れない。 ゆっくりと瞳を開けると間近まで迫っていたはずの顔は離れてしまっていて、何故かギュッと鼻を摘まれた。 「なっ!? なんだよ!!」 「何が」 「何がって! 何がって!! 今のだよ!」 「あー期待してたんだ? 何かを」 「し、してない!!!」 「ふーん。 ……んなの出来るわけねーじゃん」 (…………え?) 最後の方は聞き取りにくかったが、「出来るわけない」そう言ったように聞こえた。 チクリと胸が痛む。 よく分からない動揺が由宇を襲い始めた。 まるでキスされるかもというシチュエーションだったのに、出来るわけないとは何事か。 本当に出来ないのなら、思わせぶりな事はしないでほしい。 (いやいや、それじゃ俺がキスされるの期待してたみたいじゃん…!! ……え、待ってよ。 ……俺…期待してたの…?) 運転を再開した橘の横顔を、怖くて見られない。 顔面が怖いからじゃなく、由宇はちょっとだけ期待していた自身に愕然とした。 橘だったら構わない。 何故そんな風に思えたのだろう。 悪魔みたいな顔だがイケメンなのには変わりなく、それに絆されたのか…果たしてそれだけなのだろうか。 「今日出した宿題は分かんの?」 「…………………………」 「おい、トロ。 シカトすんな」 「…………………………」

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