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6一7

6一7 頭が真っ白だ。 いくら知らない世界をたくさん見せてくれるからといって、ここまで見せてくれなくていい。 もしあのまま唇が触れ合っていても、由宇は拒否しなかったと思う。 それは紛れもなく期待していたという事だ。 初めての彼女は自分より小さくて華奢で、物言わぬような大人しい子だろう、そしてキスなんてものはまだまだずーっと先の事だと勝手に妄想はしていたが、現実的ではない。 後頭部を支えられて橘の鼻先と由宇の鼻先が触れ合う寸前、見詰めてきていた視線の熱さ、ほんのあと数センチでその時は訪れていた。 (うわうわうわうわ…っっ! どうしよう、なんでこんな緊張してくんだろ…!?) 橘は半笑いで鼻を摘んできたから、恐らくまた由宇をからかったのだ。 そうだと分かっていても、なかなかドキドキは治まらない。 昨日といい今日といい、初な由宇の大人の扉を無理やりこじ開けようとしてくる橘の余裕にムカついた。 けれどどこかで、委ねてもいいと思ってしまった自分にも腹が立つ。 からかわれても、茶化されても、真っ直ぐな正義を見せる橘を許してしまっているから、こんな事になるのだ。 「………もうあんな事しないでよ」 「あんな事?」 シカトするなと言われても、思考停止に陥らせた張本人に言われたくない。 由宇はとにかく、もうおちょくるような真似はしないでと横目で訴えた。 「…………うん」 「どんな事?」 「いや、だから、あんな事…」 「ハッキリ言えよ。 昨日もお前ちゃんと言わねーまま寝ちまったよな。 あんな事とかそんな事とか濁しやがって」 「だって言えるわけないだろ! そ、そんな…恥ずかしい事……」 「ガム取って」 「ちょっ! 聞いてんの!?」 右手だけでハンドルを操作する橘が、左手で由宇の前のダッシュボードを指差した。 会話が成り立たないばかりか、戸惑いっぱなしの由宇を相変わらずこき使う。 マイペースというのは絶対に長所ではない。 ……こんなにもイラつくのだから。 「聞いてる。 ガム取って。 今日はミントがいい」 「ミントっ? どこにあんの…って、あ、あった」 「二つな」 「はいはい……」 「はい、は一回」 「ふーすけ先生もさっき、はいはいって言ってただろ!」 「あ、細けー。 うるせー」 信号待ちに差し掛かり、言い合いしながらも橘にミント味のガムを二つ手渡した。 赤に変わったばかりの信号をチラと見た橘は、一つだけ口の中へいれて一度咀嚼すると、突然由宇の顎を取って唇を押し付けてきた。 「んむむっ……!?! …ンッ…んっ………」 驚く由宇の口の中へガムを舌で押し込むと、二、三度舌を交わらせて去って行った。 信号が青に変わる絶妙のタイミングで唇を離されたのだと分かっても、「さっすが〜!」とは当然ならない。 「……ッッッ!?」 すでに真っ白だった頭はこれ以上白くなりようがなく、ただただ橘の横顔を見詰めてわなわなする事しか出来なかった。 (今…何された……? あれは……何…?!) さっき、不覚にも期待してしまっていたあのキスでは……ない。 口移しでガムを貰った。 それだけだ。 「……………しないでって言ったのに!!」 茶化すような事はしないで、由宇は間違いなくそう訴えたはず。 大人の余裕だか何だか分からないが、ガムくらいわざわざ口移しで貰わなくても自分で食べられる。 「このメーカーのミントが一番好きなんだよ」 「そんな事聞いてないよ!! なんであんなっ…! あんな事…!!」 「美味いだろ? 清涼感ハンパねー」 「………ッッッ」 狼狽えまくる由宇などそっちのけで、橘は飄々としていた。 運転する横顔を、信じられない面持ちで凝視しながら口の中へ入ってきたガムを恐る恐る噛んでみる。 味など分からない。 (何だったんだよっ! …今の!!!) あまり見詰めていたら「イケメンだからって見惚れるな」と言われそうで、慌てて前方へと視線をずらした。 シートに沈んで、ひたすらパニックと戦う。 今のは何だったのか、あれはキスじゃないのか…? まるで経験の無い由宇にその答えなんか見付からず、橘も教えてくれそうにない。 押し当てられた橘の唇の温かさと、侵入してきた舌の熱さは未だ鮮明に感覚が残っている。 初キスはもっと、初々しく触れるだけのものだと思っていたが、大人の世界は違うのだろうか。 想像とかけ離れた出来事により、由宇の頭は完全にショートした。 「着いたぞ。 帰りたくねーなら俺ん家来る?」 呆然と前を見据えていた由宇に、橘が唇の端を上げていつもの笑みを向けてきた。 自宅の前で停車した車からなかなか降りようとしない由宇を見て、考える時間もくれない悪魔は再びアクセルを踏もうとしている。 「い、嫌だ! 帰る!! 先生の家なんか行ったらまたあんな事するだろ!!」 「だからあんな事って何だよ」 「あんな事はあんな事!! も、もうほんとにやめてよね! 送ってくれてありがとうございましたっ!!」 いつもの調子な橘をこれほど憎らしいと思った事はない。 由宇は真っ赤な顔で急いで車から降りると、プイと回れ右して自宅の扉に手を掛ける。 背後で窓が下がる音がして反射的に振り向くと、あの橘が見た事もないほどとても優しい笑顔を浮かべていた。 「明日の放課後から勉強だからな。 宿題忘れんなよ」 「……………ふんっっ」 言うだけ言って、橘は走り去って行った。 どういうつもりだ。 由宇をこれだけ振り回しておいて、あの笑顔は卑怯だ。 (…またあんな事されたらたまんないから、行かないもんね………!) 扉に手を掛けたまま、ズルズルとしゃがみ込んでしばらくその場から動けない。 「ふーすけ先生の笑った顔…カッコ良かった……」 コツン、と扉におでこをぶつけてそんな事を口走っていたが、由宇にはその自覚はまるで無かった。 何だか心臓がずっとうるさい。

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