６一８ おもむろに唇を指先で撫でると、あの口移しされた唐突なキスっぽいものが蘇ってきそうになる。 味は分からなかったけれど、「清涼感ハンパないミント味」だという台詞はよく覚えていて、どうしようもない気持ちになった。 （あれって……ふーすけ先生の中では普通の事、なのか…？） 何も経験がない由宇には、あれがどういう意味を成すのかさっぱり分からない。 こうしてベッドの中で悶々と考え込む羽目になっているのに、対して橘は今頃ノーパンで呑気に寝ているのだろう。 由宇が居なければいつも焼酎を飲むと言っていたから、飲んだくれている可能性もある。 吸った事のないタバコの味が舌と脳裏に焼き付いていて、歯磨きをしたのになかなか離れてくれない。 どうしてくれるんだ。 （俺のファーストキスがあんなのだなんて…！！） 初めてのキスは、触れるか触れないかぐらいの優しいキスにお互いドギマギして鼻頭がぶつかる…みたいな照れくさい展開を想像していた。 突然顎を持たれてガムを放り込まれ、舌をちょこちょこっと絡ませてすぐに去って行くような妙なファーストキスを、誰が予想しただろう。 しかもその後なんの説明も弁解もない。 直前に「出来るわけない」と橘は呟いていたから、完全に油断していたのだ。 出来るわけないなら思わせぶりな事はするな、そう苛立ちを覚えていた直後にアレだったので、由宇の混乱はひとしおだった。 申し訳ないが、怜の件が脇に置かれてしまうほどに衝撃的な出来事である。 扱かれてイかされた事もそうだ。 きっとそれも理由があるはずだからなんて事はない、などと頭からその記憶を消し去っていたのに。 （……〜〜っっ、やめやめ！ なんで俺が先生に振り回されなくちゃなんないわけ！？ 今は怜の事に集中しなきゃ！） あまりの混乱にまったく眠れず、ベッドの中でモソモソと寝返りをうっていた由宇は自身を叱咤してジッとしたまま瞳を閉じた。 眠れないけれど、忘れるには寝るしかない。 夢の世界に行ってしまえばあれこれ悩まずに済むから、早く、早く堕ちなきゃーーー。 一昨日はここに小さな塊が居たのに、今日は居ない。 広いベッドで大の字になると、余計にその存在が無い事を知らしめられている気がした。 「出来るかっつーの」 橘は珍しく独り言を呟いた。 風呂上がりにビールを二缶飲み、つまみ無しで芋焼酎をストレートで五、六杯は飲んだはずだ。 それなのに頭はキレッキレで、瞳を瞑れば幼い横顔がチラつく。 自分にロリコン趣味は無かったはずなのだが、何故あんな事をしてしまったのか橘自身も分からずにいた。 からかってみればキャンキャン言い返してくるし、あえての意地悪を言えば奇声を上げる。 うるさくて面白くてつい無闇にイジってしまうが、さっきのは完全に意識無くやってしまった。 まだまだ子どもな由宇のキスを待つ幼な顔に、何故だか強く興味をそそられた。 変な母親は自宅に居ても由宇に食事を作らないと知って、思わず「ありえねぇ」と小さく呟いたのだが由宇に聞こえてしまっただろうか。 ほとんど帰らないらしい父親は帰宅するなり母親と言い争い、由宇を自宅に居辛くさせるなど言語道断だった。 両親共にきちんとした職に就いているからか、悪影響しかない家庭環境の中あんなにも素直に育ったのは奇跡だ。 嫌味なところが全く無く、こちらが素を出せば由宇も無邪気に接してくる。 甘える事を知らないせいで、あの歳で「遠慮」を覚えてしまっているのは可哀想だとすら思った。 「………でもなー……」 何とかしてやりたい。 家に居たくないのなら、むしろ由宇はここにずっと居たらいいのに。 今まで誰一人この家に上げた事は無いが、自然とそんな風に由宇へ手を差し伸べたくてたまらなくなっている。 怜の家なんかではなく、俺ん家に来いと言ってしまいそうになって、やっと堪えたのだ。 自分でも煮え切らないのに、由宇の言う「あんな事」をしてしまったが…さてこれからどうしよう。 性器を扱いてイかせて、キスもした。 これでもまだ、橘の中では踏ん切りがつかない。 「………あいつに自覚させる前に俺だな」 もはや由宇を、一生徒としては見ていない。 それだけはきちんと理解していて、往生際の悪い橘はその想いを育てるようには気持ちを持っていかない事にした。 「あんな事」をしてしまったからこそ、橘と由宇が強く惹かれ合わない限り結ばれる事はない。 ふいになればそれだけの気持ちだったという事だ。 橘は恋愛に向かない。 昔から特定の相手は作らなかった。 一晩限りで充分だし、相手には事欠かないのでゴムさえ付ければ一日に何人とでも寝られる。 節操がないと自覚もあるから、わざわざ年下の男に気を取られなくてもいい。 ガムを口移しでやって、無意識に舌を絡ませてしまったのもからかっただけだ。 好きになるとかならないとか、超めんどくさい。 食事に連れて行ったり添い寝をしてあげたり、優しい言葉を掛けて機嫌取りのように微笑んでみたり、そんな面倒な事は御免なのだ。 ……だがこの時の橘はまだ気付いていなかった。 そのどれもこれも、超面倒だと思っているすべての事を由宇には自然としてしまっていたーーー。