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6一9
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由宇は清々しく目を覚した。
意外なほど、よく眠れた。
夕べの鴨のフルコースは安眠の作用でもあるのかと朝から調べたが、そんなものは無かった。
思い悩んでいても、寝れば多少は忘れられていて、ベッドに腰掛けて指先を唇に走らせても昨日ほどドキドキはしない。
「あ………でもあの笑顔は……」
起き抜けで、去る間際の橘の笑顔を思い出してしまいちょっとニヤけた。
「カッコ良かったなー……」
ガムの口移しは意味不明過ぎて理解出来ないけれど、あの笑顔は目に焼き付いていてどうも心臓に悪い。
いつも悪魔のような仏頂面だから尚更あの笑顔はインパクトが強かった。
のろのろと支度をして、誰も居ない食卓の上にはいつもの菓子パンがあったがそれには手を付けずに家を出た。
バスに揺られ、電車に揺られ、学び舎へと歩む足取りは何となく軽い。
朝食を食べなくても平気なんだと思いながら教室に入ると、先に登校していた怜に微笑まれた。
「おはよ、由宇」
「おはよー」
「なんか機嫌いいな?」
「そう? パン食べなかったからかな?」
二学期に入って席替えをしてから、怜とは席が離れてしまった。
駅に迎えに来るのは申し訳ないからやめてと一ヶ月以上言い続けてやっとやめてくれたので、必ず由宇より先に登校している怜はこうして由宇の席で毎朝待っている。
顔色の良い由宇の声音に、怜の笑みが濃くなった。
いつ見ても優しい笑顔だ。
「逆じゃないのか。 て事は朝ご飯抜いてきたの?」
「うん。 一人でパン食べるの苦痛でさ。 しかも毎朝同じパンって飽きるよ」
「そうなんだ。 …明日から朝ご飯なんか作ってきてやる」
「え!? いいよ、そんな! 朝食べなくても死にはしないし」
「じゃあ家に泊まればいいじゃん。 昨日もLINEしたけど泊まるの週末じゃなくてもいいだろ?」
「う、うん……まぁそうなんだけど…」
「今週一緒に帰れないって言ってたし、担任との話終わったら家においでよ。 着替えもあるんだから。 な、決まり!」
「…………うん、じゃあ…」
こういう時、「親に聞かなきゃ分かんないよ」という台詞を使えないのが痛い。
相談したところで、自分達の事で精一杯な両親は「勝手にどうぞ」と適当に返してくるのがオチだ。
怜の好意に甘えたい自分も居ながら、学校があるのに連泊するなんて迷惑ではないかと考え込む。
今さらな気もするけれど、つい遠慮が先に立つ。
(あ……怜とたくさん話が出来るのはチャンスかもしれない…)
そうだ、由宇には期限付きの約束事があった。
昨日のあれこれのせいで脇に追いやってしまっていたが、今は謎のガムキスで悩むよりもこっちで悩まなければ。
怜の自宅で一緒に居られるのなら、時間を最大限に活かしてどうにか説得への道も手繰り寄せられるのではないかと思った。
「なに、もしかして泊まるの嫌?」
頷かずに考え込む由宇を見て、怜の瞳が不安そうに揺れた。
「あ、違う、嫌じゃないから! ……行っていいなら、行こうかな。 でもほんとにいいの? 迷惑じゃない?」
「なんで迷惑なんだよ。 いいよ、おいでおいで」
「それじゃ、少しだけお世話になります」
ひとまず、この週末までの間は怜の自宅に身を置かせてもらおう。
来週になれば事態が少しだけ変化しているかもしれないので、由宇はそう言葉を選んだ。
授業中も上の空で、どうやって怜を母親の元へ導こうかと必死で模索した。
そこに至る会話の流れが難しい。
嫌っている橘の数学の授業が始まると、斜め前方に居る怜の表情が途端に抜け落ちる。
未だ橘を誤解し続けているから仕方ないにしても、由宇の胸中は色々と複雑だった。
本当は怜と怜の家族のために動いてるんだよ、実は怜の母親は橘の恩師で、恩返しをしたいという気持ちで家族を元に戻そうと懸命に走ってるんだよ。
そう教えてあげたくなる。
それは完全に橘に沿った思いからくるものなので、それを突然怜に言っても信じてもらえないだろう。
それならば、順を追っていくしかない。
由宇が、頑張らねばならない。
教壇に立つ橘を見詰めると、今日も変わりなくいつもの悪魔面だ。
居眠りしている生徒を叩き起して黒板へと向かわせ、問題を解かせている。
(あーあぁ。 あんなにガン飛ばしちゃって)
居眠りしていた生徒は、震える手で黒板にガタガタの数字を書いてさらに橘の眉間の皺を濃くさせた。
「読めねー。 寝るなら帰れ」
「すみませんっ」
席に戻れという風に顎をしゃくって、ガタガタ文字を消した上に丁寧な数字を上書きしていく。
「センセーひどぉい」
橘は至っていつも通りなのだが、ガタガタ文字を書いた生徒は席につくと肩を落として凹んでしまった。
それを見た女生徒は、話し掛けるタイミングが出来たとでも言うように甘えた声を上げる。
「何が」
「イケメンが台無しになってるよぉ。 センセー、スマイルスマイル♡」
「んなもんするか。 どう考えても俺の授業で寝る奴が悪いだろ。 次いくぞー」
「はーい♡」
いつも通りも度が過ぎると笑えてくる。
橘は変わらない。
いつだって冷静で、時折可笑しくなるほどマイペースだ。
(ふーすけ先生って呼んじゃいそうになるなぁ)
決して皆の前では呼ばないけれど、由宇だけの特別な愛称を胸に秘めていると思うとニヤけてしまってダメだ。
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