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6一10

6一10 放課後、由宇はこっそり橘から逃れようとしていた。 怜には先に帰ってもらったが、橘との約束である生徒指導室へ行かずに時間差で由宇も帰宅しようと目論んでいる。 授業中はさすがに意識は逸らしていたけれど、あんな事をされた手前、考えナシに行くのは相当躊躇われた。 まさか学校で何かされるとは思っていない。 どんな顔をして会えばいいのか分からないだけだ。 スマイルなんかしない、と女生徒を一蹴していたが、由宇はその極上スマイルを見てしまっているから余計にだった。 (あと五分経ったら帰っちゃお) 誰も居なくなった放課後、見付からないように三年の文系クラスがある別校舎までやって来てスマホで時間を確認する。 由宇が来ないと分かれば、マイペースな橘は我慢できずにタバコを吸いに行くだろう、そして面倒くさくなって由宇を待たずに帰宅するだろう、そういう寸法だ。 スマホで時間潰しをしていると、放送開始チャイムが鳴ってビクッと体が揺れた。 放課後のこのチャイムは人気がないからかとても響いて、心臓によくない。 『一年二組、白井由宇くん、至急生徒指導室まで来て下さい。 繰り返します、〜〜』 (えっ、俺!?) 年配の女性教諭にまさかの自分の名前を放送されて、しかも生徒指導室までという単語に慌てて立ち上がる。 あの教師の担当は何だったっけ。 何かやらかしてしまったのだろうかと、由宇は疑う事なく生徒指導室まで小走りで駆けた。 内申に響くような事じゃありませんように…と願いながら、勢い良く扉を開ける。 「失礼します!」 「遅せーよ。 タバコ吸いたくてイライラしてんだけど」 (…………何これ。 ……デジャヴ?) まるで昨日の台詞を再生しているかのような橘の声に、由宇は立ち竦んだ。 (……もしかして俺………騙された?) 生徒指導室まで、と放送で言っていたのだから、その時点でピンとこなければいけなかった。 この橘が、逃げようとする由宇の魂胆を見透かさないはずがなかったのだ。 「〜っっ騙したな!!」 「人聞き悪りーな。 逃げようとすっからだろ」 「に、逃げようとなんてしてない!」 「顔に出過ぎ。 面にボク嘘ついてますって書いてあんぞ」 「書いてるはずないだろ!」 「喚いてないでこっち来い。 座れ」 嫌だ、と言って逃げてもどうせ捕まる。 騙されて疑う事なくここまでやって来た由宇の負けだ。 飄々とした橘の悪魔の微笑を前に、奥歯を噛んでイライラを押し殺す。 橘から少し離れた席に着席すると、表情を変えないままフッと笑って由宇の前にやって来た。 「今日は何食いに行く?」 「はっ!? いや、勉強するんでしょっ?」 気は乗らないけれど、せっかくこの場に来たのだからと由宇は数学の教科書とノートを取り出していたのだが、まるでかけ離れた事を言われて声が裏返った。 由宇の教科書をパラパラと捲りながら、橘はまたフッと笑う。 何がそんなに楽しいのか知らないが、「いつも通り」な悪魔を前にすると嫌でも昨日の事が思い起こされる。 「一応な。 昨日は鴨だったじゃん? 今日は牛がいっかなーと思ったんだけど」 「待って待って待って、今日は行かないよ!?」 「はぁ? なんで」 (えっ? えっ? なんでって、どういう事だよ?? 食べに行く約束してたっけ!?) さも、行くのが当然、のような口振りなので、由宇がその約束をすっかり忘れているのかと記憶を辿るがそんな約束はしていないはずだ。 あんな事やそんな事があったからと言って、忘れるわけがない。 今日から由宇は自宅に帰らないので夕飯の心配ならいらなかった。 (……あ、なんだ、…そっか。 先生、実は心配してくれてたんだ) 天邪鬼な橘ならそれもあり得る話だと、由宇はノートを開きながら微笑んで見せる。 「ふーすけ先生、昨日俺の母さん見たから気使ってくれたのかもしんないけど、今日からしばらく怜の家に泊まるから大丈夫。 夕飯は怜が作ってくれるし、安心してくださいな」 「何?」 相変わらずだな〜と呑気に笑っていた由宇は、恐ろしいほど目付きを鋭くさせた橘の視線に射抜かれて急に生気を失う。 直に、しかもこんなに至近距離でガンを飛ばされると相当怖い。 「え? や、だから、怜の家にお世話になるから……」 「いつそんな事が決まった?」 「今日、だけど……」 「しばらくって何だよ。 何日も泊まるのとか許してねーだろ」 「ゆ、許されてないの!? 誰に!?」 「俺に」 「………………!???」 訳が分からない。 なぜ怜の家に泊まる許可を橘に取らなければならないのか。 目が点になってあからさまに不機嫌な橘を見詰めると、勉強などそっちのけで泊まる事になった経緯を根掘り葉掘り言わされた。 「へー。 ふーん。 朝メシごときにほだされんのか」 「違うよ! 俺は、怜と一緒にいる時間たくさんあった方が説得しやすいかなって思って、それで…!」 「何日泊まるって?」 「それは……分かんないけど……。 とりあえず今週末までって俺は思ってる」 「じゃあ日曜は俺ん家な」 「はっ!?! やだよ、行かない!」 「んだよ、それ。 ムカつくなー」 横目でジロリと睨まれて、勉強するんじゃないの、と軽口も叩けず由宇は視線を落とした。 しばらく沈黙が続くと、教師のくせに生徒の前でおもむろに禁煙パイポを咥えて前歯で噛んでいる。 それを噛みながら、「まぁいいや」と何故か急に折れてくれた橘の狂気の気配が消えた事にホッと胸を撫で下ろした。 (何だったんだよ、今のー!!!) 怜とその家族を元に戻す手伝いをするため、橘に協力するのだからいいではないか。 この一週間で由宇は怜を説得をしなければならないので、怜と居る時間が長くなる事は好都合なはずだ。 それをあんなに目くじら立てて、どういうつもりなのだろう。

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