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14一4
見ていられない……!
由宇は俯いて両耳を塞いだ。
由宇を巻き込むまいと突き飛ばした橘が応戦し、男が振りかざした短刀が何かを切り裂いた。
嫌な音だった。
「風助……さん…」
震える声で橘を呼んだのは、短刀を持っていた男だ。
「キャーーー!!」
本日三度目の歌音の悲鳴に、由宇はじわじわと瞳を開く。
カーペットから徐々に橘の方へ視線を移していくと、橘の足が見えた。
………立っている。
(い、生きてる…! 生きてる!)
何かが切られた音がしたけれど、橘が生きて立っていられているなら目標物は何でもいい。
さらに足元から上半身へ視線を移す。
安堵できたのは数秒だけだった。
「………っっ! せ、先生…! て、て、手…!」
「あぁ?」
由宇の視界に飛び込んできたのは、短刀を左手に握った橘の飄々とした顔だった。
短刀の刃を握り締めている掌からはとめどなく血が溢れ出ていて、高そうなカーペットをこれでもかと汚している。
大量出血中なのにも関わらず、橘は顔色一つ変えずに由宇を見詰めた。
「手より髪だ、髪。 お前が気に入ってたこれ、ぶった切られた」
「そ、そ、そんな事言ってる場合じゃ…!」
橘が右手で指し示した床を見ると、ハーフアップにしていたゴム部分から確かに髪を切り落とされている。
あの嫌な音は、切れ味の良い刃が橘の髪を切り落とした音だったのだ。
「伸びんの半年かかんだよなー。 こっから切られっと横も揃えないといけねーじゃん」
「…風助さん……手…手を……」
「うるせーな。 ちょっと血付いちまったけどすぐ洗えば落ちっから安心しろ」
「い、いや…そういう事では…!」
「ガタガタうるせーとお前も回し蹴りすんぞ。 なんか文句あんのか」
「なっないです…!」
「あ、そ。 俺にドスなんか出してくんなよ。 今の俺は死にたくねーから手出しちまう」
「……………………」
ニヤッと笑い、橘は握っていた短刀を男に返した。
掌を開く時はさすがに痛そうに顔を歪めていたが、すぐさま自身のシャツの左袖を引きちぎり手慣れた様子で止血を始めている。
木刀男二人は歌音の悲鳴で気絶から目覚めて壁に張り付いていて、短刀男は橘の狂気染みた笑みに竦み上がった。
シャツなどでは補いきれない鮮血がカーペットの上に滴り落ちる中、誰よりも冷静な橘が親玉の方へ向かって行く。
「なぁ。 親父さんは俺が欲しいんだろ」
「……………………」
流血沙汰の証拠を見せびらかしながら、橘が親玉の隣に腰掛けた。
表情を変えない親玉は仏頂面で腕を組んだまま微動だにしない。
歌音と怜の父親も、強面三人衆も、そして由宇も、橘の言動を黙って注目していた。
「歌音と結婚させたいっつーの、俺をここの跡継ぎにしたいって事なんだよな?」
「……………………」
「当然だよな。 部下はイエスマンしか居ねーみたいだし。 俺ほど肝座ってる奴はそうそう居ねーし?」
「風助、分かっているなら…」
「無理。 俺は真っ白な橘家の人間だ」
「……………………」
橘は右腕を伸ばし、冷えてしまった自身のお茶を飲み干して立ち上がった。
今日この日をもって終わりにしたいという意志が見える。
由宇を巻き込んだ、橘の「ちょうどいい」の台詞の辻褄が合い始めた。
「俺縛られんの嫌なんだよ。 それでも親父さんに義理通したかったのはマジ。 こんな事される前なら、不義理する代わりにお宅に有益な情報流してやろーと思ったんだけど……何もかもご破算だ」
「……………………」
「俺が抱えてるここの爆弾、世間にお披露目したくなっちまったなぁ。 ……親父さん、必死で歌音を守ってたそこのエロ親父の行動見ても、まだ反対するか?」
由宇の心がザワついた。
また、橘は正義を貫こうとしている。
誰も不幸にならないように、自分だけが傷付けばいいと。
「なんであいつら三人がここに居たのか、俺が気付かないとでも思ったか。 こんな猿芝居に乗ってやったんだから、これ落とし前って事にしろよ」
「…お父様……?」
「社長……」
橘が、真っ赤に染まった左手を親玉にチラつかせる。
(え……猿芝居……? …もしかして親玉さん、怜のお父さんの覚悟を見るためにこんな…?)
絶句する歌音と怜の父親は、親玉を穴が空くほど見詰めて言葉を待っている。
これだけの悶着を起こしておきながら、親玉はまだ険しい表情を崩さなかった。
橘が言った事も本当なのだろうが、親玉の思いも別にある、という事か。
(親玉さん…っ、黙ってないで早く何か言ってよ…! 先生の顔色どんどん悪くなってるのに…!)
立ち上がって親玉を見下ろす橘の横顔から、次第に血の気が引いていくのが分かる。
ここに居る者達全員を守るために、猿芝居だと分かっていて大袈裟に流血した橘の真意を知る由宇は、ただただ見守る事しか出来なかった。
「…………あとは三人で話す。 風助、お前はそこのガキを連れてさっさとこの病院へ行け」
「フッ…邪魔したな」
長い沈黙の後、親玉が一枚の名刺を橘に渡し、苦虫を噛み潰したように言い放った。
橘の、体を張った痛々しい正義が貫かれた瞬間だった。
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