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 教師らしい事を言われると、由宇も考えてしまう。  出れるものなら出てみたい気持ちは、多少なりともあるのは事実だ。  事故に遭う前は当たり前のように参加し、楽しんでいた「体育祭」。  それが出来なくなった理由は、リハビリが過酷過ぎたのと、術後の傷跡の引き攣りが不快でたまらなかったからだ。  走りたくても走れない。  痛みが出たらどうしようと怖くて、つい身構えてしまう。  そして、傷跡が引き攣るあの感覚は例えようもないほど不快なのだ。  事故から二年以上が経った今、本当はそのどちらも杞憂に過ぎないと自身では分かっているけれど、それをそう簡単に乗り越えられるかというと微妙だった。  モゾ、と体を動かしつつ黙りこくった由宇を、「ジッとしろよ」と窘めた橘が優しく頭を撫でてくれた。 「俺はそういうのまったく出てこなかったから、今結構楽しい」 「えっ!? あれ先生楽しんでたの!?」 「なんだよ、悪いか」 「い、いや…全然悪くないけど……楽しそうに見えなかったから…。 ていうかどちらかと言うとめんどくさそうに…」 「あぁ、めんどくさいのは確かだ。 けどな、思うんだよ。 こいつらにとって数年後、数十年後、この体育祭の一日が確実に心に残ってんだろーなって。 それならいいものにしてやりてぇじゃん。 学生時代っつーのはほんと一瞬だからな」 「…………………」  思っていた以上にまともな事を言われてしまい、何も言い返せない。  抱き寄せられた胸に顔を埋めて瞳を閉じ、「そんな事言われても…」の思いに囚われた。 (先生が先生らしい事言ってる……)  今のは確実に、様々理由を付けて嫌な事から逃げている由宇への橘なりのメッセージだろう。  いつまでも怖がっていたら、大切な思い出を一つ取りこぼしたまま卒業となってしまう、それでもいいのか、と。 「お前がほんとは走れるの知ってんだからな。 俺がゴールで待っててやる。 転んでもビリでもいい、最後まで走りきれ」 「……なんでビリって決めつけるんだよ」 「一番になれ、って言うとまたプレッシャーになんだろーが」 「そういう事か…。 先生優しい」 「知ってる」 「ふふっ……」  謙遜という言葉を知らない橘が、真面目な顔でしっかりと同意していて可笑しかった。  いやらしい事をする時を除いて、橘の人間性の芯には常に優しさがある。  意地悪な物言いしか出来ないので分かりにくいが、表面上は悪魔を装っているだけで、実は正義と優しさで出来た正真正銘の真人間だ。  副総長だった過去は当然、置いといて。 「……分かった、出るよ」 「素直じゃん」 「先生が先生っぽい事言ってたから、聞き分けのいい生徒になろうと思って」 「なんだそれ」 「冗談だよ。 ……先生の言いたい事は伝わった。 花びら返してほしいからじゃないよ。 自分の意思で、ちゃんと参加します」 「よろしい」  頭上でフッと笑った橘の手付きが上機嫌そのもので、温かい雰囲気も相まって心地よい眠気を誘った。  目を閉じるとあっという間に夢の中へ行ってしまいそうだったのに、橘は由宇から離れてベッドを下りようとしている。 「あっ、…待ってよ、どこ行くの」 「あれ返そーと思って」 「……い、今じゃなくていいよっ」 「お前がさっき今すぐ返せって…」 「あ、あれは明日で、……明日でいいから! 行かないでよ先生……。 先生居ないと、ベッド…寒い…」  由宇にとってあの花びらは、何ものにも代えられない大切な宝物だったはずだ。  けれど、今この瞬間に橘が由宇から離れていく事の方が重大だった。  紛失して成績がガタ落ちするほど落ち込んだあの御守りを手にする事よりも、今は橘の温もりを感じていたい。  行かないでと橘のバスローブを引っ張ると、これみよがしに大きな溜め息を吐かれた。 「はぁ……。 んな顔するなよ。 犯すぞ」 「お、おかっ……!?」 「俺そんなガツガツやる奴じゃねーのに。 どうしてくれんだ」 「な、…何が……って先生…っ?」  ゆっくりと隣に戻ってきた橘は、由宇を抱き枕にして何やら指折り数え始めた。 「~、三、四、……」 「なに? 先生何数えてんの…?」 「開発と拡張はあと四日あれば充分だろ。 その頃には忌々しい薬も包帯も無くなってるだろうしな。 っつー事で週末はマジで寝られると思うなよ」 「────!!」 「すげ…俺にも底無しの欲求があったのか」 「そんなしみじみ言う事じゃ……!」  ガッチリと抱き枕にされて、その温かさにほっこりする間もない。  ふいに橘の体温が離れた寂しさに、耳の垂れた子犬のようにしょんぼりしていた由宇だったが、教師の仮面を被った悪魔がまた現れて瞳をパチパチさせた。  薬はどうだか分からないがたった四日で包帯が取れるわけがない。  ふむ、と感心したように漏らす台詞にも背筋が寒くなる。  「拡張」も「開発」も、どちらも耳を塞ぎたくなる単語だ。  今日よりパワーアップした行為を強いるつもりの橘はニヤリと楽しげだけれど、由宇はどうやったら逃げられるかと考えてしまって眠気が冴えた。

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