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 教室の入り口扉に凭れて腕を組んだ橘が、無表情で由宇を見据えている。 「あっ、あれぇー! 橘先生! ななななんでここにっ!」 「うるせーな。 白井由宇クン生徒指導室まで。 二分以内な」  真琴をジロリと睨んだ後、由宇に向かって満面の笑みを見せて去って行った橘の背中から、ドス黒いオーラが見えた気がした。 (うわ……なんかヤバそう……)  笑顔が下手くそなはずの橘が、満開の笑みを携えていた事に背中がぶるっと震える。 「由宇、……俺弁解に行こうか? 勘違いで乱暴されたりしない…?」 「だ、大丈夫…だと思う…」 「大変! 二分以内に来いって行ってたのにあと一分半しかないよ!」 「え!? じゃ、じゃあな、怜! 真琴!」  ヤバイヤバイ!と焦る真琴から尻を叩かれ、由宇はそそくさと首にマフラーを巻き、鞄を肩に掛けて教室を飛び出した。  生徒指導室までの道を、一心不乱に走る。  今は走るのが怖いなどと言っていられない。  笑顔でドス黒いオーラを放っていたヤンキー教師が、最高に機嫌が悪い状態のようなので一刻も早く辿り着かねばと必死だった。 「……はぁ、はぁ、…っ…あの笑顔は不気味過ぎるだろ…!」  由宇と怜が抱き合っていたのは、単なる友情の抱擁だ。  走っていると、大いに勘違いしていそうな橘の背中に追い付いて少し速度を上げた。  ここには、「廊下は走るな」とうるさい年配の学年主任が居ないので、遠慮なく駆けていく。 「………先生…っ」  生徒指導室の扉に手を掛けた橘を呼び止め、この短距離ながら息の上がった由宇は膝に手を付いて荒い呼吸を繰り返した。 「走ったのか」 「…っ、…それは、先生が二分以内って!」 「俺そんな事言った?」 「言った!!」 「まぁ入れよ。 個人授業を始めようじゃないか」 「何その言い方…! 怖いんだけど!」  またもやニッコリされ、妙な言い回しと共に薄気味悪さで冷や汗が止まらない。  ガラガラ、と扉を開けた橘は、わざわざ由宇を先に通してくれたりしてそこも不気味だ。  こんな状態で、由宇だけのための個人授業が出来るのだろうか。  帰る家は同じなのだから家で数学を教えてほしいと言ってみたが、橘からの返答は、 『なんで家でまで数字見なきゃなんねんだよ。 嫌』  …とはじめは素っ気なかった。  その気持ちは分からないでもないけれど、他ならぬ由宇の頼みなのだから譲歩してくれてもいいだろうと不満を持った、昨日の夕食時。  しかしその後一緒に入った浴槽内でイチャついていると、橘はさらりと本心を打ち明けてきた。 『個人授業はな、学校でやる事に意味があんだよ。 お前の入試まであと一年もねーんだから』 『……………?』 『学生のお前と学校で過ごせるのもそんだけの期間しかないっつー事。 言ったろ、学生時代ってのはほんの一瞬だ。 少しでも同じ時間過ごしてぇじゃん。 校内で』 『………っ! 先生……っ』  背後から橘にこう囁かれた事で、由宇の不満は完全に消え去った。  優しいとか正義感があるとか、そういう人間性にも存分に惚れているが、意外にも橘は付き合うとポロポロと甘い言葉を本音で語ってくれて、慣れないからか何だか面映ゆい。  拡張初日の朝、疲れ果てて橘の夢を見なかっただけで『寝てる時も俺の事だけ考えてろ』とイライラされ、面食らったものだ。  これが「ギャップ」なのか、とニヤついてしまうのは仕方がないと思う。  何しろ橘は、由宇が初めての恋人だと打ち明けてきたのだから。  そんな愛しの恋人が、怒りのオーラを纏わせて静かに笑っている。  薄気味悪くなるのも当然だった。 「良かったな。 走って来なかったらここの備品がいくつか粉々になってた」 「なんでだよ! …ね、ねぇ、先生…何か勘違いしてない?」 「何が?」  窓から怜と真琴が帰宅している様を見ていた橘が、あの笑顔で振り返ってくる。 (これ! このニッコリ顔…!)  なまじ顔が整っているので似合ってはいる。  出会ってから初めて見るこの恐ろしい笑顔が通常であれば、何ら狼狽えたりしない。  だが橘は悪魔の微笑を得意とするので、天使のように微笑まれると何故かオロオロしてしまう。 「……………先生怒ってる」 「怒ってねぇよ」 「怒ってる! だってニコーッて笑ってるし!」 「どういう意味だよ。 なんで俺が笑うと怒ってる事になんだ」 「笑顔怖いもん!」 「お前……その一言は余計だろ」  怖い、と言うと橘はいつもの三白眼に戻り、ジロリと睨みを効かせてきた。  ───見慣れたこちらの方がしっくりくる。 「…先生…、何で怒ってんの…?」 「怒ってねーし。 あんま言うとマジで怒るぞ」 「怒んないでよ! 俺が怜と抱き合っ…」 「言うな」 「……………!」  怜と抱き合っていたのは、まさしく深い意味のない抱擁であると弁解しようとして橘に近寄ると、ぶにっとほっぺたをつねられた。 「想像するとムカつくから言うな」 「やっぱ怒ってんじゃん!」 「いや怒るっつーかムカつく」 「どう違うんだよ!」  その二つは類語ではないのか。  やはりムカついていたのだと知っても、何も悪い事はしていないのだから謝りたくなかった。  橘も、そして由宇もムスッとした顔でしばらく見詰め合う。  三白眼の瞳の中に、負けじと視線を送る自分の姿が移って気分が萎えた。

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