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ごぽ、ごぽり。
自分の口から、最後の空気が飛び出し、流れに飲み込まれていく。
どれ程流されたのか。苦しいような、苦しくないような曖昧な間隔が忍び寄り、緩やかに意識を手放し始める。
―嗚呼、もう駄目か…
生きる事を、諦めた。
その時。何かに手首を掴まれ、強い力で引き上げられた。
―大丈夫か!
知らぬ男の声が、落ち行く意識に木霊した。
同時に、はっと意識が覚醒する。呼吸が乱れ、酷く汗を掻いて夜着が体に纏わりついていた。
見上げているのが見慣れた天井である事に、深く安堵を覚える。
ごそりと起き上がり、深く息を吐き出す。力が入らない手を見やれば、小刻みに震えている。拳を握り、もう片手を添えて、祈るように両手を胸に引き寄せた。
夜の静寂の中、外では虫がちりちりと鳴いている。
「…ああ、気持ち悪い…」
汗を流そうと立ち上がり、湯殿へ向かう為に閨から足を踏み出した。隣は景津の自室。しんと静まり返り、侘しさを感じながらも部屋を横切り、障子を開けば日中の爽やかな風と打って変わり、僅かばかりひやりとした風が肌を撫でた。
屋敷の全てが静まり返り、気配すら無い。と、思いきや、梔子の甘い香りが鼻腔を掠めた。嗅ぎ慣れたその匂いは、母が愛用している匂い袋のものだ。
匂いを辿るように廊下を踏みしめながら、視線を巡らせれば、案の定、母の部屋の前には月明かりを浴びながら煙管を銜える鬼女の姿。
「母上、まだ起きていらっしゃったのですか」
声を掛ければ、母、月の院が振り返る。白雪の如き髪と肌。名の由来でもある望月の如き双眸。沙耶香と同じ位置にある一角は、艶やかな黒曜石のきらめきを放つ。
月の院は我が子の顔を見上げ、少女のような可憐さでふわりと微笑んだ。
「あら、もう動いても宜しいのですか?」
掛けられた言葉に、景津も微笑みを返した。
「ご心配をお掛け致しました」
「わたくしはそれ程心配しておりませんでしたよ。そうね…そなたが目を覚ますまで食事も喉を通らず、毎夜涙に暮れていた程度、かしら」
とても心配したのだと言外に告げる母に、景津は改めて頭を下げた。
「ふふ、ごめんなさい。意地悪を申しました。そのように恐縮せずとも、こうしてまた言葉を交わす事が出来たのです。それだけで、母は嬉しく思うのです…」
「…はい、有難う御座います」
座りなさいな、と促されるまま月の院の隣に腰を下ろし、同じように月を見上げた。
「そう言えば」
心地よい沈黙は、妙に感情が削げ落ちた母の声により破られる。
「あなたを川へ突き落とした者は、地下の獄に投じられました」
潜めた怒りが滲んでいるのを感じながら、母の言葉に耳を傾けた。
「私情で裁く事は決してありませんが、幾ら里の為、一族の為と大義名分を振り翳したとて、あやつらは里の『結界』たるそなたを殺めようとしたのです」
相応の罰が下るでしょう。
里の内政にも携わる母の言葉は、重かった。
「…そうですか」
可哀想とも、重い罰を与えて欲しいとも思わない。それが報いだと知っているから。『人柱』の命を狙った報いだと。
「それで、そなたは何ゆえこのような夜更けに?」
月の院が煙管の灰を落としながら首を傾げれば、景津は思い出したかのように「あっ」と声を上げ、苦笑を滲ませた。
「ああ、いえ…些か夢見が悪く、汗を掻いてしまいまして…目覚めついでに流してしまおうかと」
あれを夢と、悪夢と称していいものか僅かばかり思い悩むが、どのような理由であれ溺れている場面など悪夢と言うに相違ないだろう。
月の院は「あらまあ」と口元に手を添え、景津を促した。
「引き止めてしまいましたね。早くお行きなさい。風邪を引いてしまいます」
「ふふ、さすがにそこまで軟ではございません。母上も早くお眠りください。冷えてしまいます」
景津は自分の肩に掛けていた羽織を、母の細い肩にぱさりと掛けてその場を辞した。
来た道を戻る息子の背を見送りながら、月の院は憂いを含んだため息を吐き出し、再び夜空を見上げた。
景津が川に突き落とされたと聞いた時、深い絶望と狂おしい程の憤怒が、刹那の間に体中を駆け巡った。普段から鬼にしては珍しく穏和であると称される月の院が、怒りも露わに声を荒げた事に誰もが驚愕し、怯えた。父だけはどっしりと構え、平時と何も変わらなかったが。
数日前の出来事を僅かに恥じ入りながら、月の院は煙管を片付けると煙管箱を手に自室へ戻り、そっと障子を閉めたのだった。
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