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第8話

少しだけ怖い夢を見た。 だがその内容をはっきりとは思い出せない。 ニロは硬いベッドから起き上がり、窓の外を見た。 日はもう落ち、月明かりが差し込んでいる。 未だに動かない右足を引きずるようにベッドから出て部屋のドアへと向った。 廊下はひんやりと冷え切って暗く静かだった。 足元を照らすわずかな光が見えたがニロの目には暗い空間に白い光が浮いているように見える。 壁を伝いながら足を運ぶ。 体が足を引きずっている。 痛くはなかったが、酷く重くて自分のものではないようだった。 「....はぁ...」 息が上がり心臓が爆発しそうになるため途中で何度も止まらなければならない。 いつもより何倍もの時間をかけやっとの思いで廊下の端まで辿り着いた。 彼は寝てるだろうか。そう思いながらノックをした。 返事はない。 ニロは何も言わずゆっくりとドアノブを回した。 いつものようにジザベルがベッドを背に床に座り窓を見上げていた。 月明かりに照らされた闇の中で三角形の耳のシルエットが見えた。 ニロはよたよたとそちらへ近づき、彼の隣に崩れ落ちるように座った。 「....なにか、...みえる....?」 浅く呼吸をしながらニロは呟いた。 ジザベルはこちらを向き、優しく微笑んだ。 「ニロが見える」 ぼんやりと暗い視界の中で、彼の笑顔だけがハッキリと見えるようだった。 「こんな夜中にどうしたの。体調悪いんでしょ」 ぐったりとうな垂れるようにベッドにもたれているニロを見てジザベルはまた怒ったような顔になる。 「ジザベルよりは元気だよ」 「ああ、そう..」 いつかの仕返しをするとジザベルは呆れたように口を歪めた。 ふふふ、と笑ってニロは彼の黒い髪に触れる。 絹のように滑らかで、するりと手から離れていく。 「....俺、目の手術する事になったんだ」 滲んだ視界の中、じっと彼の顔を見つめた。 切れ長の瞳。吸い込まれそうな黒。長い睫毛。 白い肌。薄い唇。いつでもピンと立っている三角形の耳。 ずっとずっとこの顔を見ていたいのに。 ジザベルはしばらく複雑な顔でこちらを見ていた。 「治るんだろ」 僅かに開いた口から尖がった歯が見えた。 ニロは、うん、と頷いた。 「でもね...もしね、見えなくなるんなら.... ジザベルの顔見ておきたくて。」 両手を伸ばし彼の頬に触れた。 冷たかったが嫌な冷たさではなかった。 「バカだな。僕の顔なんか見てもしょうがないだろ」 「そうかなぁ」 「ッ..そうだよ、いつだって見れるんだから」 泣きそうに顔が歪んだ。 ニロにはそれでも綺麗に見えた。 「うん、でも俺はジザベルを見ておきたかったから」 そういうつもりは無かったのに、 気付けば頬が濡れていた。 「なにそれ..意味わかんない」 ジザベルは掠れた声で呟きながら、ニロの頬に流れる涙を拭うように頬に口付けた。 「ふふ、見えないよー」 ニロはジザベルの頭を撫でた。肩が震えているようだった。 「見えるようになるよ..今よりずっと..」 「うん、そうだね」 2人は顔を上げてお互いの顔を見つめた。 「ジザベルは、綺麗だ」 自分のカサついた唇がジザベルの濡れた唇に触れた。 世界の果てまで見えるようになりたいだとか 野原を駆け回りたいだとか、そんな事は願わない。 この世で見たい者は、側に居たい者は、いつも、いつだってただ1人。ジザベルだけ。 冷たい床に彼の黒髪が広がった。 滲んだ視界の中、月明かりに照らされて白い肌と黒い髪が光っているように見えた。 瞼の裏側にずっとこの景色が張り付いていればいいのに。 それさえ叶えば、何も要らないのに。 「ジザベルだけいればいいのになぁ」 「君がそういう事言っちゃうんだ?」 「なんで?本当のことだよ」 「意地悪なものは僕の台詞だと思うけど」 「そうかなぁ俺は意地悪だよ...」 何も変わらないようで、何も変わらないことを良しとしても 世界は変わっていく。常に変化し続ける。 時計の針が同じ所を回っても、生き物はそうはいかない。 生きている限り。 「僕は、ニロさえいればいいんだ」

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