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その日を境に僕の生活は少しだけ変化した。朝から図書室に行き、瑞木と顔を合わせる。そしお互い好きなように過ごすのだ。以前とは違い、彼とよく会話をするようになった。
ここ最近の瑞木は、読書をする時間が減った。僕のことをぼうっと見つめたり、窓の外を眺めたり。机まで持ってきた本をパラパラとめくってもすぐ閉じてしまう。そんな彼の様子を見て、僕は思わず質問した。
「もう本は読まないのか?」
「そんな気分じゃないだけ。図書室に来ることは習慣になったけど、読書は身につかなかったみたい」
「退屈じゃないのか。僕はアンタを放っとく時間の方が長いけど」
瑞木は頬杖をつき、にっこりと笑った。
「好きで毎日来てるんだ。こうして岐田さんといるだけで、楽しい」
「へえ」と適当な相槌をうって、読書を再開した。隣の瑞木はそんな僕の様子を見て、再び窓の方へ顔を向ける。校舎の三階にある図書室からは下にあるプールがよく見える。僕の席からも、水泳部員が上げている水飛沫のきらめきがハッキリと確認できた。
プールを眺める瑞木の横顔から視線を外し、手元の小説に注目する。文字を目で追うものの、頭にちっとも入ってこなかった。心臓の動きが、心配になるほど速い。涼しい風がカーテンを揺らしても、僕の顔は熱いままだった。
僕は今まで、一緒にいると楽しいなんて人から言われたことは一度もなかった。退屈だと言われた方が多かった。自分でも分かっていたことだったから特に反論もしてこなかった。僕の性格的に、人を積極的に楽しませようと行動することは難しいと理解していたからだ。
しかし、今日は違った。何故か瑞木は「楽しい」と言ってくれた。理由はサッパリだった。
それでもいい。ここ最近の僕は、全ての疑問を頭で解決しようとすることをやめていた。「分からないままでも大丈夫なことはある」と思えるようになっていたのだ。少し能天気で、のんびりとした瑞木と毎日一緒にいると、気楽に生きていくことを許されたような気分になれたのだった。
♢♢♢
「ただいま」
世界一開けたくない扉をくぐり、玄関に入る。天井に吊るされた、無駄に輝くランプの光を反射する大理石のタイルが敷き詰められた、我が家の顔。この民家に住んでいる人間の数と不釣り合いな広さ。ここに入るたびに、僕はうんざりする。
靴を揃え、リビングと繋がる扉に向かう。動物の毛皮を模した絨毯を、裏が汚れた靴下でわざと踏む。そんな僕を、壁に掛けられたシカの頭が、見下ろすように観察している。動物の顔を模した標本。趣味が悪い。
「あら、おかえりなさい」
リビングルームに入ると、奥にあるキッチンに母が立っていた。一瞬和かな表情を浮かべた彼女だったが、僕が背負っていた物を見ると、眉をひそめた。
「またギター?勉強しに学校に行ったんじゃあないの?話が違うじゃない」
「誤解だよ、母さん。しっかり図書室で勉強して来ましたよ。ほら」
話題を逸らすために、予め用意しておいたノートを差し出す。露骨な努力の痕跡が残された大学ノートを見せると、母は満足そうな様子になった。もうギターの事なんて頭になさそうだ。
「その調子なら、次の受験は大丈夫そうね!貴方はあの時、運が悪かっただけよ。…次は期待に応えてくれるわよね?」
「はい…頑張ります。…あ、そうだ。今日、晩御飯はやめておきます。少し体調が悪いので」
「それは大変ね。おやすみなさい」
そう言うと、母は三つあった皿のうち、一つを棚に戻した。その様子を確認した僕は二階に向かった。
自室の扉を閉めて、息を吐く。胸の詰まった感じが少しだけ和らいだ。もう少し、学校にいればよかった。この家から一秒でも長く離れていたい。父や母と話していると、消え失せたくなる。
背負っていたギターを壁に立てかけた。その隣に置かれていたエレキギターからは目を逸らした。
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