91 / 121

2-23 単純かつ不穏な背景

なんにも要らない、この人さえいれば。 この人さえ、私の世界で暮らしているのなら。 そんな風に思える人間は、そう簡単には見つけられないと思う。 その証拠に、これまでの人生でそんな風に思ったのは初めてだった。 初恋、といえば聞こえはいいのかもしれない。 だけれど大人になって初めて見つけたその事象には 自分が心底支配されているような気がしてならない。 「そんでさ、どうにか家の中に戻そうとしたんだけど 何故か買った時よりでかくなってて入らんくて…ってあめちゃん聞いてる?」 雨咲は呼ばれて内心ハッとなりながらも、視線を目の前に移した。 ボケっとした顔でカップ麺を啜っているミナミの姿があり、 雨咲は無表情のまま自分の小さな弁当箱に目を落とした。 「すみません、どうでもいい話だったので」 「えーひっどぉい!」 ミナミは急に乙女のような顔と声で首をふるふると振り始める。 その演技がかった所作に雨咲はため息を零しながら、 弁当箱の中身を口に運んだ。 「栗崎さんの真似ですか?」 「そ、結構似てるしょ」 ミナミが得意げに笑っていると、休憩室に入ってきた裾川の姿を彼の背後に捉え 雨咲は彼に視線を送った。 弁当箱を持った裾川は迷いなく雨咲達の座っているテーブルに近付いてきて、 ミナミの隣の椅子に腰掛ける。 「なんの話ー?」 「裾川さん、終わったんすか?」 「終わってないけどぉ、腹が減っては戦はできぬので」 今日も他部署に駆り出されていた裾川は口を尖らせながら弁当箱の包みを解いている。 「ミナミさんのくだらない物真似を見せられていました」 雨咲はようやく彼の話し相手をする激務から解放され、 彼のことを睨んでおいた。 「物真似?」 「あめちゃんひっどぉい!」 「あははは、受付の栗崎さん?割と似てんじゃん」 裾川はミナミの気色の悪い声の出し方に面白そうに笑っている。 最近受付に入ってきた女子社員は、少々化粧が濃く 明らかなモテ意識の女性で、雨咲は自分と正反対な彼女が少し苦手だった。

ともだちにシェアしよう!