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 カタカタとキーボードを打っては書類を捲る。単調な作業を繰り返しながらも、立花の脳内は嵯峨山のこと、あの日の夜のことを延々と繰り返している。つまりは怒涛の後悔が押し寄せているのだ。  なぜあんなことを、と聞かれれば、衝動的なものだったとしか言えない。 「はい、はい…その件でしたら、後程改めて見積書をファックスさせて頂きます。番号は…」  もやもやとした灰色の雲が胸の内に渦巻き、書類作成中も電話応対時も鳴りを潜める気配はない。いつも以上に黙々と仕事をこなしていれば、時間が過ぎるのも早い。 「おい、あんぽんたん。昼飯だぞ」 「いたっ」  一条に軽く頭を叩かれ、はっとパソコンの時計を確認すれば、十二時二十分を示していた。深く息を吐き出しながら、凝り固まった肩をグルグルと回す。もうこの時間ではいつも行く定食屋は満席だ。 「一条さんは…」 「食ってきた」 「えっ!声掛けてくださいよ!」 「掛けたけど、反応しなかったのは立花くんですー」  そう言って一条は歯磨きを銜えて、給湯室へと消えて行った。 「…お昼行ってきます」 「おーう」  大きく伸びをしながら会社を出て、さてどうしたものかと歩き始めた。  数分後。立花の足が向ったのは、たまに来店するラーメン屋。バイトの少女に案内された立花の目の前には、ラーメンを啜る嵯峨山。何の因果なのかと、立花は頭を抱え込んだ。 「はい、味噌ラーメンお待ちどうさん!」  女将の溌剌とした声と共に、湯気の立つ味噌ラーメンがテーブルに置かれた。出来うる限り、嵯峨山を視界から外したかったが、差し出された黒の箸に顔を上げるほか道はない。のろのろと顔を上げ、箸を受け取った。 「ありが、とう…」 「いいえ、どういたしまして」  平時と変わらぬ嵯峨山に、幾分か安堵の息を付きながらも、早く食べ終えてこの場から逃げなければとラーメンに口を付けた。 「立花さんって、ゲイなんっすか?」  予想だにしていなかった問い掛けに、立花はぶふっと噎せてしまう。口元を押さえながら顔を上げれば、見つめてくる嵯峨山の眼差しは真剣そのもので、見なければよかったと思うほどに目が逸らせない。 「あー…まあ、あの事は忘れてくれ」  立花はぎこちなく視線を外し、ずずっとラーメンを啜り上げた。  いくら弱っていたとはいえ、浅慮な事をしたと悔い、一方的に嵯峨山を避けていた罪悪感で正面の男を正視することが出来ない。 「もし、嫌だと言ったら…?」 「忘れろ」  くだらない事を言うなと僅かきつめに伝えれば、嵯峨山は何も言わずに席を立った。荒れた手が攫って行ったのは、二つの伝票。 「あ、それ」 「お先です」  立花の声が聞こえなかった素振りで、嵯峨山はレジへと歩いて行ってしまった。その背中を見送り、立花は小さく舌打ちをしてラーメンを完食するために、箸を動かし始めたのだった。  会社のドアをスライドさせると同時に零れ落ちた深いため息。 「ただいまでーす」  意気消沈。出て行くときよりも更に気分を暗くした立花が、のそりと会社へ入れば社内がにわかに騒がしくなっていた。  ―ああ、飛び込みか。  葬儀というのは、突発的に起こることが多い。昔より多くなってきてはいるが、生前より本人ないし家族が事前準備をする家庭は少ない。  数名の社員の動きを眺めた後、担当から外れていることを確認して自席に戻ると、パソコンの画面上部に黄色の付箋が張られていた。一条からの伝言で、飲みの誘いである。強制参加の赤文字に深く息を吐き出して、脳内で所持金の確認をし始める。  生花の発注等の電話対応をしていれば時間は過ぎて行く。  密葬にて故人を見送るという遺族の意向により、会社の人間も最小限に留める事となった。  定時である十八時にもなれば、外もすっかり真っ暗で、寒さに凍えながら帰路に着く人間も増え始めている。 「うし、行くか」 「はい」  一条に促されて立花も自席を立つとコートを羽織って、会社を後にした。    時刻は二十一時。  行きつけの小料理屋『此花(このはな)』の暖簾をくぐれば、程よい喧騒の中から店員の出迎えの声が大きく響いた。 「おう、いらっしゃい」  二人がカウンターの隅の席に腰を下ろせば、明朗な笑みで迎えるカウンター内で魚を捌く壮年の男。一条の伯父、高木保津と言う。 「芋焼酎二つ、お湯割りで。あと、オススメとおでん適当に」 「あいよ!今日のオススメはぶり大根だ」  手際よく並べられたお湯割りの焼酎とぶり大根、そしておでんのたまご、牛すじ、こんにゃく、餅巾着。三人は近況報告も兼ねて世間話をしていたが、客の呼び掛けで高木がその輪から離れた。  焼酎と煮物に舌鼓を打ちながら、味についていくつか言葉を交わした後はどちらともなく自然と口を噤む。  コップの半分ほどを飲み終えた一条が、箸を置いて頬杖をついた。 「そいで?」 「は?」 「さがやんの事」  飛び出した愛称に立花の表情は、あからさまに不機嫌ものとなる。一条は素知らぬフリで、ぶり大根の大根を一口サイズに割って口に放り込んだ。  しかし、立花の中で嵯峨山との間に起きた事は口外すべき事ではないと決めている。そもそも誰かに話せるような事ではない。眉間に深い皺を刻み込み、一条と同じように一口サイズより大きめの大根を口に押し込んだ。  片頬を膨らませながら咀嚼する立花の姿は、何も問うなと言っているようなものだ。さすがの一条も困惑を表情に浮かべたが、それで引き下がるような殊勝な性格ではないと自負している。 「まあ、何もなかったわけでは無いのが分かったから、今のところはそれだけでいいわ」  口角が上がり、眦が下がる。何とも愉快げな笑みに、焼酎を一気に呷った立花はコップをカウンターテーブルへ僅かばかり強めに叩き付けた。 「ご馳走さまでした!一条さんの奢りでよろしくです!お疲れ様でした!」  いつの間にか荷物を完食していた立花は、引き留められる前にと慌ただしくその場を辞した。  立花の背が消えた扉を見つめ、一条は深いため息を吐き出し、食べ掛けのたまごに齧り付く。 「うまー…おっちゃん、ちくわと厚揚げ」 「あいよー。お、なんだ、優輝の奴もう帰ったんか」 「ん?ああ、うん、用事があるんだってさ。あ、焼酎おかわり」 「あいよー」  湯気が立つちくわに熱い熱いと言いながら歯を立て、味の染みたそれに幸福を見出だす。 「しばらくは見物人でもするか…」  誰ともなくひとりごち、提供された焼酎にひと心地つくのだった。

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