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 冷たい風が吹けば、アルコールと多少の運動で温まったはずの体はすぐに冷えていく。 「さむ…」  マフラーで口元を覆い隠し、手はコートのポケットへ。 「ハア…」  知らず知らずにこぼれ落ちたため息が、白に染まって霧散する。子供の頃を思い出し、何度も息を吐き出しては、消え行く白を見送った。  長居する事もなく飲みの席を立ってしまった為、飲み足りない気分だった。いつもの平日の夜ならば、あまり深酒をしないようにこのまま自宅へと帰るのだが、なんだかそれも味気ないと近くのコンビニへと足を向けた。  上機嫌にも鼻歌を紡ぎながら、カンカンカンと安アパートの階段を駆け上がる。 「ん?」  ふと顔を上げた瞬間に、ほろ酔い気分が一気に醒めた。 妙に黄ばんだ室外灯の下、自室の前の鉄柵に寄り掛かる大きな人影。 「…ちわ」 「…げー…」  冗談の欠片も感じない、心底嫌そうな声が漏れた。その眉間にも深い皺が刻まれる。 「ひどくないっすか…」  眉尻を下げて頭を掻く姿は、叱られた犬に見えなくもない。が、こんなデカい犬が居て堪るか、と立花は自分の思考を切り捨てた。 「で、何?わざわざ人の家まで出向いて」  通勤用のカバンからキーケースを取り出し、悴む手で鍵穴に差し込んで解錠する。背後の男の気配はどこかぎこちない。  立花は今日だけで数えるのも面倒になったため息を吐き出し、嵯峨山を振り返って睨み上げた。 「アポなしで来たからには、急用だったんだろ?早く済ませろよ」  言い捨てた後に、少しばかりきつい言い方をしたものだと、内心、舌打ちをした。苛立ちに任せて、常にない物言いをしてしまったと後悔する。しかし、苛立ちの理由は目の前の男だ。遠慮はいらないかと思い直して、ガリッと後頭部を掻いた。  いつも溌剌と明るい嵯峨山は、珍しく煮え切らない態度で立花の様子を窺っている。 「はーやーく」  催促の為にゴッゴッと踵を鳴らせば、嵯峨山は眉尻を下げて僅かに俯く。視線を右へ左へと泳がしたあと、意を決したかのように深く息を吐き出して顔を上げた。 「あのっ…!」  ――カンッカンッカンッ  階段を上って来る足音に、嵯峨山の覚悟は砕け散り、言葉にする事が出来なくなってしまった。同時に、立花は眉間に皺を寄せて、しまったと苦々しくため息を吐き出した。 「うー…さむ…」  踵の高いヒールで器用に階段を上がって来たのは、美しく着飾られた女性。その様相は、夜の蝶である。 「あれ、立花さんだ。仕事帰り?お疲れー」 「木野さんも、お疲れ様」  見られてしまったものは仕方がない、と立花は常と変わりなくひらりと手を振って木野を労う。付け睫毛で縁取られた目が、嵯峨山へと向かい、立花に戻るとにんまりと口角を上げた。 「新しいカレシー?やるじゃーん、何年振りよー!」 「違うから。コイツ、そんなんじゃないから!」  照れちゃって、と木野は立花をからかいながら、自室のカギを開けてまたねと手を振った。  沈黙がおり、嵯峨山は再び言葉を失った。それを横目に見た立花は、またもため息を吐き出してドアを引いて、人ひとりが通れる隙間を作る。 「とりあえず、中入れば」  何かを諦めたような表情で嵯峨山を促したが、嵯峨山は案の定躊躇いを見せた。立花は腕時計の針が十一時を回っているのを確認すると、男のふくらはぎを蹴りつけて戸惑う双眸を睨み付けた。 「ここの人たちは今からが帰宅時間だから、鉢合わせる確率高いんだよ。……俺の男に間違われたくなかったら、さっさと入れ」  自分よりも僅かに広い背中を、無理やり押してドアを潜らせると、本日一番の深いため息を吐き出して自分も玄関を潜った。  狭い玄関でもたつく体を押しやり、ずかずかと室内に進んで電気を点けた。マフラーも取らず、コートを脱ぐ事もせず、一番にするのは簡単に誂えた仏壇のロウソクに火を付ける事。そして、線香を立てて手を合わせる事だった。 「お邪魔します…」  やっと室内に足を踏み入れた嵯峨山は、立花が手を合わせる簡易仏壇に写真立てが二つ並んでいるのを見た。ひとつは穏やかに微笑む三十代ほどの女性、もうひとつは五十代ほどの男性の写真。 「…ご両親、ですか」  掛けられた声に反応したかのように、立花は合掌を解いて立ち上がると防寒具を外し始めた。コタツの電源を入れ、ストーブに火を入れる。 「うん。母さんはガンで、親父は心筋梗塞」 「…すんません」  突いて出た謝罪の言葉に、立花は苦笑を浮かべて見せた。 「もう何年も前だし、気にする事じゃない。とりあえず座れば?ハンガー使う?」 「あ、いえ、お構いなく」  立花はスーツの上着をハンガーに掛け、厚手のパーカーを羽織って台所に立った。 「酒は買ってんだけど、何か腹に入れてる?」 「あ、はい。一応飯は食ってます」 「オッケー。つまみ適当でいいでしょ?」 「あっ、いえ、俺は」 「遠慮すんなよ。こんなんで遠慮されたら、俺も色々話しにくいわ」  冷蔵庫の明かりで照らし出される横顔は、先ほどまでの苛立ちも気まずさもなく、平素通りの立花の表情だった。  嵯峨山は無意識の内に強張っていた体の力を抜く。恐怖を覚えていたわけではないのだが、今まで気さくに付き合ってきた人間の見た事のない姿を目の当たりにすると、うまく立ち回る事が出来なくなってしまう。 「これでつないどいてよ」  テーブルに置かれたのは、冷えた缶ビールとイカの燻製、そして器に移されたコンビニのおでん。牛筋と大根が二つずつと餅巾着がひとつ。柔らかな湯気が立ち上り、美味しそうなダシの香りが食欲を刺激する。 「巾着は食うなよ」  好物だから、と立花は憮然とした表情で野菜を切り始めた。 「いただきます…」  ――パキッ  割り箸を割って取り皿に大根をひとつ移した。 「うま…」  柔らかな食感。咀嚼すれば染み込んだ汁が溢れ出す。  カシュッと缶ビールのプルタブを上げ、一口飲んで息をついた。台所からはジュウジュウと肉や野菜を炒める音が響き、漂い始めた匂いに嵯峨山の小腹がキュウと鳴く。 「うし、できたー」  カンカンとフライパンと菜箸がぶつかる音。湯気の立つ大皿がテーブルに置かれ、立花は嵯峨山の正面に腰を下ろした。 「ごま油の肉野菜炒め。いただきます」  手を合わせた後、真っ先に手を伸ばしたのは缶ビールだ。ん、と開けたばかりの缶を差し出され、意図を読み取った嵯峨山は自身の缶を手に取ってカツンとぶつけた。 「お疲れ様です」 「お疲れ」  嵯峨山は二口ほど飲むが、立花は口から缶を離す事無く一気に呷った。ゴクゴクと喉が上下に動き続ける。 「た、立花さん?」 「っ、あー!うまい!」  ――カンッ!  テーブルに叩き付けられた缶は、高い音を鳴らし、中身が入っていない事を嵯峨山に伝えた。そんな立花の様子がおかしいと判断した嵯峨山だったが、食えと勧められて少しだけ冷めた大根に再び箸を突き刺す。

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