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信じられる?
「エル」
全く無音の空間に、その優しい声だけが響いた。
僕は瞬きもせずに、その人が一歩一歩足を進めるのをまるで夢を見てるみたいに、ただ茫然と眺めた。
ふんわりと頬に手を置かれ、それと一緒にふわっと大好きな香りが鼻をくすぐり、胸がぐっと締め付けられて。
「エル、迎えに来たよ」
だって、だって、僕は…。
「ど、して……?」
そう、言うのが精一杯だった。
「絶対に迎えに行くって、約束したよね」
約束?
本当に迎えに?
ヴィル様、って呼んだけど、声がちゃんと出なくて口パクになってしまったけど、ヴィル様は柔らかく頷いて、僕を胸に抱き寄せてくれる。
ヴィル様、ヴィル様、ヴィル様!
涙腺が壊れたみたいに、ボロボロと涙が出てきて、ヴィル様の服を濡らしてしまった。
「遅くなって、ごめんね。辛い思いをさせてしまって、ごめんね」
違う違う。
僕が、僕が悪いのに。
しゃくりあげてるから、声も詰まって、僕はひたすら首を振った。
「うん、うん。ちゃんとわかってるから、大丈夫だよ」
「ぼく…っ…ヴィルさま、だまして…っ」
ヴィル様は目を伏せて首を振ると、僕の頬を両手で包み込こんで、額に、瞼に、鼻先に、そして唇にキスをした。
「エルの事なら、なんでも知ってるから騙されてなんかいないよ」
本当に?
本当に、ヴィル様はなんでも知ってるの?
「で、でも、僕、もうヴィル様と一緒にいられない…」
「どうして?」
ヴィル様はいつになく不安そうな顔。僕の肩に置かれた手にぐっと力が入った。
「……副師団長様に薬を、」
デトレフ様にしたこと、きっと許されないことだから。戻れば処刑されてしまうかもしれない。
ヴィル様は少しほっと息を吐いて微笑んだ。
「大丈夫。デトレフの件ならもう解決したよ。だから心配しないで。…ほかに不安なことはある?」
「…あ、あの日…、あの日に、」
ヴィル様は静かに僕を見つめて、僕の言葉を待ってくれる。
「ヴィル様が…女性といるのを見てしまって…。僕、勝手に…」
「そっか、だから…」
あのね、エル、とヴィル様は続ける。
「多分その人は元婚約者」
「婚約、者?」
「そう、……俺こそエルを騙してたんだ。他にもたくさんの人と関係を持って傷つけてきた。手酷いこともした。エルの事もただの……ただの性交渉の相手としか見てなかった。すぐ捨てるつもりだった。……酷い奴、だよね。それでも、そんな俺でも信じて待てた?」
見たこともないほど苦しそうな顔をして、今にも泣きだしそうで。
ずっとずっと、ヴィル様は…。
「…僕は、…僕はヴィル様に傷つけられたことも、酷いことされたこともないから、よくわからないです…。だって、ヴィル様はいっつも優しくて、…ちょっと意地悪な時もあるけど、きれいで、かわいくて、かっこよくて。僕はそんなヴィル様しか知らないから…」
「……エル」
「…デトレフ様みたいに無理やりすることもできたのに、ヴィル様はデートも連れて行ってくれて、しきたりまで守ってくれて。僕は約束を信じられなくて逃げてきたのに、ヴィル様はここまで来てくれて、ちゃんと……僕、のこと、…」
なんでなんだろう。勝手に涙が出てくるよ。
また情緒不安定病が発症しちゃった。
「…だから…ヴィル様のこと信じるな、って言われても、その方が、僕にはできないよ…」
ヴィル様がぎゅって僕を抱き寄せてくれる。
「エル…、ごめんね」
「……ヴィル様…」
「今までしてきたこと、エルを伴侶に迎えるために清算してきたんだ。婚約も解消して、貴族達とも話を付けてきた。だから、エルが俺を信じられるなら、一緒にいて欲しい」
そのために待ってて欲しいって、僕に…?
僕はそれを最後まで信じて待てなかったんだ。
でも、今度は、
「ヴィル様…、ずっと一緒にいようって約束したよ。僕その約束ちゃんと守るから、ヴィル様を信じるから」
ちょっと目を瞠ってからヴィル様はすっごく嬉しそうに微笑んだ。ちゅって音を立ててキスされて、何度もされて、どんどん深くなる。
「…ん、…んっ……ン…ふ…」
抱きしめられて、腰を支えられて、ぴったり密着して、ほぼ真上を向かされながらのキス。そしてまたぎゅって抱きしめられる。
「ありがとう、エル。離れてる間にエルの大切さを思い知ったよ」
「僕もずっとずっとヴィル様の事ばっかり考えて…、もう会えないって思うと涙が止まらなくて…」
「エル…。もう悲しませたりしないから、不安にさせたりしないから」
ヴィル様の柔和な声が僕を包み込んでくれて、僕の心がどんどんヴィル様の温かさに溶けていくみたいだった。
「だから、一緒に帰ろう。この子も一緒に」
そっと、遠慮がちにヴィル様の手がお腹に触れる。
この子の事も知ってたの?
この子も一緒帰っていいの?
認めてくれるの?
一緒にいていいの?
「ヴィルさまぁ…」
僕の顔、きっと涙と鼻水でぐちゃぐちゃなんだ。でも、それでもヴィル様は抱きしめてくれる。
ぎゅーって強く包み込まれて、僕もヴィル様の背中に手を回して、抱きしめ返した。
夢、じゃないのかな。
こんなにしっかりヴィル様の体温を感じられるんだから、夢じゃないよね。幻じゃないよね。
見上げたら、ポタって何か頬に降って来た。ヴィル様は変わらずにっこり微笑んでいて、でもまた…。
これって――。
「…ヴィルさま?」
聞いた僕の頭を胸に抱き寄せられて、視界を覆われて、ヴィル様の顔が見えない。
「会いたかった」
少し震えて発せられたその言葉に全部全部何もかも吹き飛んで、ただただヴィル様が愛しくて愛しくて堪らなかった。
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