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第二章◆霧ノ病~Ⅷ
いつの頃からだろう。
世界が色褪 せ。冷たく感じられるようになってしまってから、ずっとだ。
ルーリィ ... ...
お前の心からの笑顔を見ていない気がする ... ...
ベッドに座ったきり、薄曇 を通して差す光を、膝 に受ける。
若者の虚 ろな眼差 しは、痩 せ細って骨の浮かび上がる自らの手元をに向けられたまま。
ただ、ぼんやりと開かれているだけだった。
部屋には、使われているかどうかも分からない収納家具が一つだけ。
血の巡 りも滞 り、痺 れる手足。
罅割 れた肌。
口内は乾 ききり、呼吸も浅い。
朦朧 とする意識。
辛 うじて繋ぎ止める意識の末端 で、彼は嘆 いた。
――― 嗚呼 ... ... ぼくの愛する妹 ... ...
どうしてお前は、笑顔を偽 るようになってしまった ... ... ?
『お兄さんの意識はだいぶ遠退 いているようだが。まだ、薬は飲めるのかい?』
『はい ... 水と一緒に口に運べば、なんとか飲み込んでくれます ... 』
『であれば、また数日分を置いていくことにしよう』
『すみません ... ありがとうございます ... 』
――― ほら、まただ。
机の上に薬袋を置いて、席を立ち見送る間 。
部屋を出る医師に頭を撫 でられる。
少女の繕 う笑顔には、怯 えているような雰囲気すら感じられた。
『いいんだよ。君の血は比較的、魔力が濃いから。
登録さえ済めば、魔導師や錬金術師に高値で売れるはずだ。
それに、何といっても ... とても良い香がするからね ... ... 』
彼女の首筋に唇 を寄せ、医師は甘く囁 く。
『申請の費用だって勿論 、私が負担させてもらうよ』
『 ... はい ... お願いします。グレコビッチ先生 ... ... 』
チュッ ... ... チュ ... ...
気味悪く、医師と少女の舌が絡 む音。
そうして彼は我 に返る。
あまりの不快感に、吐き気を催 し、
臓物ごとぶち撒 けてしまいそうな危機感すら覚えた。
何も今、思い出す必要など無かった。それなのに ... ...
意に反して頭の中を駆け巡 っては、彼の人格に亀裂を入れていく記憶。
思考を濁 す霧が心臓を喰らい、じわじわと穴を広げていくのが分かるのだ。
薄れゆく怒りと悲しみ。
相対し、芽生えた憎悪に支配された瞬間。
どこからか、彼に囁 きかける声がした。
抗 ってはいけないよ ... キミはもう、生まれ変わったのだから ... ...
狂気に満ちた咆哮 を発す。
彼の意識はもう、途切 れ 々 だった。
――― 母さんが死んで。父さんまで倒れて。
宿屋の経営がままならなくなった頃から。
ルーリィ ... ... お前が、
あの医師のもとへ通いはじめたことを ... ぼくは知っている。
薬のために、血を売って。
高値がついたと言って余分に持ち帰った金貨は、
お前が奴と唇を合わせて得 た稼 ぎ ... ...
汚らしい奴の欲望を口に含 んでいる、お前を見てしまった時だよ。
ぼくの心に。絶望という黒い穴が空いてしまったのは。
嗚呼 ... 実に醜 い ... ...
煮えくり返る 腸 に根ざした闇ノ種が、その時、弾けた。
撒 き散らされる残忍な思想は、冥府ノ霧 を呼び込み。
霧は人の欲 を喰らう。
欲を失い麻痺 した人の心には ... いつしか〈無垢なる狂気〉が宿るのだ。
誰かが囁 いた。
これは進化だと ... ...
悠久 の安息を得 よ。
無欲に帰 すのだ。
憂 いの世界に〈絶対秩序〉を齎 しめんが為 。
物質、思念。あらゆるものを凍結し封じる冥府の炎さえ、押し返す聖火 。
黄金色に輝いていて神々 しいそれは、
項垂 れ身体中 を爪 で裂く若者の血を糧 に燃え盛 った。
境界にて。更なる変異を遂 げた魔物の姿を遠目に見つめながら、フェレンスは確信する。
瘴気 に混 じる嘆 きが、法の盾を貫通して意識と接触した時だ。
『やぁ ... ルーウィル。気分はどうだい? 』
かつての医師の声を聴 く。
霞 む視界の端 に映り込む若者の顔は、憎悪の影により黒く塗り潰 されたかのよう。
『君の血が干上 がってしまう前に、もう一度だけ採取 させてもらいたくてね。
私を追いやった帝都の連中に、これを見せたら ... ははは ...
〈奴等 〉め、気不味 いだろうが渋々 、私を呼び戻すだろうさ』
脳裏に転写される少女の兄の記憶を垣間見 て。
一時 ほど憂 うも干渉 はせず。
『あらゆる変化に完璧と言っていいほどの順能力を見せる君の身体 は、
人の姿を留 めながら変異していく。 ... 神が降りようとしているに違いないのだよ。
そうさ。魔物なんて汚 らわしい呼び方をしてはいけないんだ。
これから私は人々に呼びかけていくつもりだよ ... ...
... ... これは 、〈神化 〉だと ... ... 』
気味悪く笑う口元から、予測を裏付ける言葉が。
「やはり ... ... 」
聞いていたフェレンスは、悲しげに瞼 を落としつつ意識を研 ぎ澄 ませた。
最終形態まで達した魔物 の哮 りが轟 く疑似空間に、絶え間なく奔 る雷電。
多方向に接 ぎ組まれ、密度を増していく義球 の内部で両腕を広げると。
下僕 と通じる楔 の具現が煌 めいて散る。
複雑化する法基盤 の管制 を可能にするため。
緻密 な印を連 ね昇 る光は、やがて腕部装甲 を模 した魔青鋼 製の装置 を変成し。
それらは、即座に装着された。
そして、滑らかな光の道筋 を裂 く指先と。
呪文を紡 ぎ囁 く唇 が解き放つ。
――― 下僕 よ ... お前の望みに応 えてやろう。
〈 Mi sirviente ... respondere a tu deseo. 〉
この世の、あらゆる力を超越 した存在と成 り降臨 せよ ... ...
〈 Mas alla de todos los poderes de este mundo. Por favor baja ... ... 〉
枷 に縛 られ、伏せるカーツェルの背筋に沿 う視線。
呼び起こす呪文詠唱 。
天を仰 いだ彼の胸元から刳 り出された心臓は、七色に輝く光の粒と成 り。
フェレンスの操 るする義球に流れ込むそれは、冥府の炎と入り乱れ鼓動した。
魔人は、更なる変化を遂 げようとしている。
神化 ... ...
彼の民は、それが 翠玉碑 の制約に反する禁呪であることを隠し続けた。
責任逃れの意図 は無く。
ただ、国の思想に反する者に知られることを恐れていたと言う。
格子窓 を叩く雨と風の音を聞きながら、
クロイツは暖炉の傍 に置いた椅子に座り、足を組み替 えた。
背を深く擡 げ、テーブルに置いた書籍 を開いて、時間潰 しをするつもり。
幾度 となく読み返してきた文脈だった。
静かに ... 念頭 で読み上げる。
〈 ... 彼の民が求めたのは、世界の均衡 と秩序 による安定である。
成 し遂 げるべくして、神の域 へと踏み込む。対価は一族の血で払う。
彼らに躊躇 いはなかった ... ... 〉
神の意識 の巡 る生命の樹 と繋がるため。
叡智 を蓄積する中枢と、それを護 る要塞 。
それぞれ築 き上げるための労働力として民を魔人化し、
操った彼らを、他の国々は驚異 と見做 す。
しかし、聖碑 を保有していた彼らのこと。罪を問うのは難しかった。
一説によると、彼らは探求を委任されたに過ぎないともある。
動乱の立役者となったのは、彼ノ尊 ... ...
〈アルシオン帝国、初皇帝 ... ... ユリアヌス・ゼーン・エウフェミオ一世 ... ... 〉
多民族との接触を避 けてきた孤高 の民が、唯一 、興味を示 した地上ノ王である。
彼自身は多国間紛争において犠牲となった国の、一生存者に過ぎなかったが。
特異的血統に生まれ、王位継承権を有 するが故 に祭り上げられたのだ。
統一後の分裂を避けるため。
利用されるだけの操り人形。
彼の血には、膨大 な魔力が秘められており。
崇拝 の対象として相応 しく。
悲運を物ともせず、地上の平和を強く望む人柄もまた。
シャンテの民が一目置いた所以 。
だが皮肉にも、そんな彼の慈愛が引き金となって彼 ノ戦は勃発 する。
要塞内部に収められたシャンテの中枢は、管制に莫大 な魔力を要したが。
そこに名乗りを挙げたのが、彼らの思想に共感を示した初皇帝・ユリアヌス。
霧ノ病とは ... ...
皇帝の精神補完 を成 した〈霊薬 〉による、副作用の呼称である。
心清らかな地上ノ王が見出 したのは、無欲の境地。
しかし、そこには ... 大きな落とし穴があったのだ。
文字通り、無欲が心に生み出す〈虚無の穴〉とでも言うべきか。
彼ノ尊 は、人々が抱くあらゆる想いの境地に争ノ種 を撒 き。
やがて、消息を絶ったという。
そして現在。
喜怒哀楽を問わず、思い馳 せ、境地に行き着いた者が次々と。
無欲に陥 り心に穴を開けた末 ... 暴走するに至る。
病症は告知されている通り。
だが、エウフェミオ一世。
彼自身が己 の病をそれと認識することはなかったはず。
何故 ならば、彼自身の精神は補完されている。
堅い意志と魔力を以 て既 に、
〈神化〉を成し遂げたと推測 されるからだ。
短く息を吐き捨て、書籍を閉じ。クロイツは思う。
禁書目録に含 まれる、これらの文書が真実であるならば。
禁呪を暴 き、初皇帝に霊薬を盛 ったシャンテの民の罪の重さは計り知れない。
「末裔 であるフェレンスは、死よりも過酷な刑に処されるやもな ... ... 」
しかし、奴等がそうはさせないだろう。
生かさず殺さず、禁呪を受け継いだフェレンスを利用したい〈奴等〉が。
書籍を閉じ、表紙に置いた手を握り締める。
クロイツは瞼 を落として、事の成 り行きを案じた。
結露 した窓ガラスの向こうでは、雪が舞い始める。
次 いで。雨の降る帝都を眺 めるアレセルが、
クロイツの思うところを捕捉 するように状況を振り返った。
先頃 まで争議 されていたのは、複合錬金の可否ばかりではないのだ。
ある日、とある人物宛てに送付されたという、
〈霧ノ病の病床記録〉と〈血液サンプル〉により、明らかとなった事。
... ... いや。これはもう、事件と言っていい ... ...
アレセルは視線を落として振り返り、改 め机の上の資料に手を伸ばした。
文書には、あの医師の名が記 されている。
... ... マルコ・グレコビッチ ... ...
この男は禁書の誤認を指摘し、
政府、教会、学会関係者らの所見 を覆 したばかりか。
混乱を招 き兼 ねない恐るべき真相を、白日 のもとに晒 してしまったのだ。
... ... 何と罪深な ... ...
痛々しい表情を浮かべ、アレセルは言う。
「奴等から見限 られるのも無理ない話だ ...
もはや名目を問わず。手掛かりの奪い合いになるのは明白なのですから。
これ以上、都合の悪い事にならないよう、消されていてもおかしくはありませんね」
彼がクロイツの申し出に応じた理由はそこにあった。
黒革の椅子にすっかりと背を寝かせ、脱力。
パターン彫りの施 された天井を虚 ろに見上げる彼は、深く息を吸い瞳を閉ざす。
「ともすれば。いよいよ僕の力だけでは ... ... 」
どうしたらいい。
一心に想う人を護 るためとは言え、心苦しかった。
民間を巻き込むような多勢を相手にするのでは、さすがの帝国魔導師もどうなるか分からない。
一先 ずはクロイツに身柄を拘束させた方が安全であると、彼は判断したのだ。
医師が書簡 を送付した後 に失踪 していることを、政府高官たちは知らない。
クロイツが手にしていた禁書の終わりにはこうある。
彼ノ民が人類の命運をかけて戦い、初皇帝を要塞ごと神の意識 の果てに封じたと。
ところが現在において、医師が残した文書の締め括 りには更ななる疑惑 が記 されていた。
神化を経て要塞の主となった彼ノ尊 は、
神の意識 の果てに生命の樹 と通じる手掛かりを見出した。
そして今、世界中に蒔 いた種を通じ、この世界に帰還 しようとしている ... ...
アレセルの手元が強張 った。
内容が確かであれば ... 彼 の皇帝が何より先に接触するであろう人物が存在するのだ。
微 かな雨音を聴きながら、彼は想い人の名を繰り返す。
「フェレンス様 ... 貴方 だけは、誰にも渡したくないのです... 」
医師の書簡が公会議に持ち込まれる事を彼に知らせたのは ... クロイツだった。
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