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第四章◆血ノ奴隷~Ⅻ
足を開き土を踏みしめ、低姿勢を執 るカーツェルに対し。
フェレンスは軸 足を前に、軽く膝 を曲げるだけの略 、直立。
両者とも微動だにせず。
浅く、短く、呼吸した。
黒髪を一つ結 にしたカーツェルの耳元まで襟 を捲 り上げる風が、凪 ぎ静まると。
試合場の中心に二人の少年の姿が、彷彿 として現 れる。
『二刀を扱 う場合。切っ先を相手に向け、手首を返し構 えるのが基本。
二の腕の引きと、腕 の曲げ伸ばしのみで素早く受け幅を拡げられる。
柔軟に受け流すことで身の返し、踏み込みも容易 ... 』
『なぁ、お前の構 えはいいからさ。こっちを早く教えろよー』
『聞きなさい。上達したいのであれば、まず道理を知ることだ。
初めから理解する必要は無い。身に付くまでの間 に、この事かと思う時が来る』
『ぁぁ ... もー。分かった! はいはい。聞く! 聞くから、次、次!』
『 ... 急っかちめ ... 』
『 ヘヘヘ 』
それは想い出。
二人が親 しくなりはじめた頃を映す幻 。
カーツェルに双剣 の扱 いと流儀を教え込んだのはフェレンスだった。
『まずは左肩を前に出して。肘 は下げること。 ... そう。
ダガーの刀身は腕 に沿 わせるんだ。握 りは、つま先より向こうへ出してはいけない』
『逆じゃダメなのか?』
『お前も右利 きなのだから、そちらの手は胸の前に控 えておきなさい。
利 き手側の脇 は開いた足の後方まで寄せて。
重心を預 ける足と膝 の直線上を常に意識する。 ... そう。
それから、鉄則として相手側に向けないこと。決してだ』
『え。つか、それって攻撃には使うなってコトなの?』
『そう。相手の懐 に入るまでは。
考えてもみなさい ... 距離を詰 めなければ振ったところで届かない』
『あ ... そっか。入るまでは何より自分の急所を守るんだな』
聞いて納得し、膝 と脇 の位置を見合わせつつ脚幅 を調整する。
カーツェルの言葉を聞いて微笑み返したフェレンスは、
彼の頭を撫 で付けたその手で背筋を前に押し、真っ直ぐ腰 を落とさせた。
『 ヒゥ ッ ... !』
『 ... ... ? 何だ。今の声は』
『何でもない!! 次!!』
尋 ねるフェレンスに被 せ気味。
閉じた目をきつく絞 って声を上げるオチビに目を丸くしたのは、かつての彼。
やがて薄れゆく。
それらを前に、カーツェルの気が散 った。
チラリ ... 一瞬だけ虚空を見やり視線を戻せば、容赦 なく踏み込んで来るフェレンスの姿。
名残惜 しかった。
その頃に戻りたいとすら感じた。
何故 だ。
決めた事なのに今更 。
戸惑 う。
けれど、もう ... ...
〈 ガチン !! キシュゥゥン ... !〉
瞬時、前に出した手を返し受け流すと、向かってきたはずの切っ先が引いて翻 る。
刃を寝かせ脇腹 を下段から狙う軌道 。
切っ先に向かい湾曲 する鍔 を上から掛け下ろしたカーツェルは、
梃 を利用し、刀身を捕 えた。
そして低く踏み込む。
フェレンスの右腕を押し開きながら。
すると、後方からダガーを弾きに掛かるマン・ゴーシュ。
ダガーを外へ振り受け流したカーツェルは、直ぐ様に肘 を引き戻した。
「ぐ ... 」
同時に歯を食いしばる。
ただの練習試合だが、呵責 に苛 まれたか。
「違うわね ... 」
ロージーの見方は異 なった。
「あ あ あぁああぁぁぁぁぁ!!」
フェレンスの腹部を目掛け、逆手のダガーを突き立てる。
その手は寸 でのところで静止。
「 ハァ ... ハァ ... ハァ ... 」
脇腹に額 を寄せ、項垂 れるカーツェルを見下ろすフェレンスは無言だった。
おかしい ... ...
開始早々、数手で勝負がついているのに息が切れるはずは無いのだ。
片 や、ロージーは手の先で勝者を指す。
「1・fase , decision ! 旦那様が一点先取です」
決まり手は、レイピアによる胸部への突き。
カーツェルがフェレンスのマン・ゴーシュを払った時、既 に。
抑 えられた剣の握り手を返し、梃 を逆手に取るかたちで相手の胸に突き立てられている切っ先 。
カーツェルは今一歩、及 ばなかった。
しかし、それよりも気掛かりなのは、若干、不規則な彼の呼吸。
フェレンスは息を詰 め、脱力したカーツェルの脇 から模擬 剣を抜 く。
項垂 れ、主人の足元を見つめていると。
向きを変え、元の位置まで引き下がっていく足取り。
深く吸った息を腹の底に据 え、カーツェルは立ち上がった。
ユラリ ... 俯 いたまま。
ゆっくり戻っていく彼の背を見て警戒を強めつつ、再び剣を抜き構 えると同時。
彼は振り向く。
だが、焦点 が定まらないのだ。
揺らぎ、ぼやける視界。
耳の奥を圧迫する血流が、周囲の音を遮断 した。
内に籠 もる声。
フェレンス ... フェレンス ...
はっきりと聴こえるのは、自らの囁 きのみ。
異変に気付いてはいる。
それでもフェレンスは、様子を伺 うだけ。
出方を待っているようにも見えた。
次に向きを変えるロージーはカーツェルの構 えを確認次第 、二戦目の開始を告げる。
ところがだ。彼の耳には届かない。
肩で息をするも身動きせず。
一同は注目した。
そんな中、不意に脳裏を過 る。
『あの魔導師とは、金輪際 、関 わるな ... ... 』
兄、フォルカーツェの言葉。
つい先日の出来事から、瞬 く間 に時を遡 る記憶。
身内の揉 め事を目の当たりにしては、利用価値の無い者に擦 り付け始末 する遣 り口を見てきた。
『フォルカーツェ様!! ご無体 で御座 います! 話が違うではありませんか!』
何故 、このような仕打ちを?
問う下僕 を見下しては、冷淡に言い捨てる。
『必要だからだ ... 』
士官学校を主席で卒業した彼の兄は、その時 ...
既 にⅣ として結社の密命を受けていたのやもしれぬ。
必要と有 らば手段を選ばず、躊躇 いもしない。
フェレンスも同じ。否定は出来ない。
しかし、自 らが代償を負うフェレンスと比較 して、どうだ。
明らかに行く道筋が異 なる。真逆なのだ。
あらゆる災厄 を他者に負わせる。
それは、事ある毎 に反発していたカーツェルにも、例外なく降り掛かった。
『一族を顧 みず、あの魔導師と共に生きたいと言うなら好きにするが良い。
こちらも利用させてもらうがな。命が惜 しくば、精々 あの男を守って生きていく事だ』
――― さもなくば ... ... 死んでもらう。
『お前に、拒否権 はない』
蘇 る記憶を再 び意識の底に沈め、カーツェルは思う。
つまり ... ...
お前が俺を突き放すなら。それでも生きろと言うなら。
俺には、こうするしか手が無いってワケだ。
「なぁ ... フェレンス ... 」
呼びかけを聞いて、フェレンスは視点を移 した。
それから、気付いて即 、模擬剣 を捨て駆 けつける。
彼の手足が、小刻みに震えてたのだ。
見ていられず、次々と塞 ぎ込むメイド達を他所 に。
目を見て危機感を覚える。
近づくに連 れ、彼の目線が外 れていった。
見えていないのか!?
フェレンスは咄嗟に彼の両脇に腕を入れる。
だが、抱きしめる身体は既に硬直しきっていた。
何故 だ ... ... !
愕然 とするあまり、声にならない。
そのため細々と耳元で囁く彼の声を、只々 聞く事になった。
「... 知ってたか? ...
俺は、お前を利用するために撒 かれた ...
単なる〈生き餌 〉なんだって」
フェレンスは慌 てた様子で彼の腰回 り、脇 、胸元を探 りはじめる。
そして膨 らみを確認し、ベストの下から手を入れた。
そんなはずは無い。
お前と距離を置けば帝 の不都合は無くなるのだから。
思っても喉 が麻痺 したように、乾 ききった息だけが抜 けていく。
ビリリ と内張りを破って取り出されたのは、褐色 の薬瓶 だった。
再度、襲い来る絶望感。
「 何 故 !! 止めなかった!?」
一語で息を吐ききる叫び。
初めて耳にするフェレンスの怒声 。
メイド達の肩が ビクリ と跳 ね、立ち竦 む傍 ら。ロージーが答えた。
「お言葉ですけどね。旦那様 ...
そのコは旦那様に付いて行こうが行くまいが、死ぬ目に遭 う運命なのよ。
それならせめて、最後の言葉くらい静かに聴いてやって下さらないかしら」
「最後だなどと ... ロージー、お前 ... 二度と言うな!!」
「いいえ。旦那様、残念ながら一線を越 えたのは、そのコだけじゃありませんから」
「何 ... ... ? 」
「少し頭を冷やして、ご覧 になるといいわ。
そろそろ奴等 が、そのコを始末しに来る頃 よ」
ガタガタ と増して震えだすカーツェルの両手からダガーを取り上げ、投げ捨てる。
そんなフェレンスから顔を背 け上空を見やったのはロージー。
すると現 れる。
「駆逐艇 !? 帝国軍が、どうして今 ... ... 」
天蓋区 を支 える塔を横倒しにしたかのような。
巨大な飛空艦艇 が夕日を遮 り、向かって来るのが見えた。
いくつもの小戦艦を引き連れている。
震える声で、カーツェルが言った。
「兄貴がさ ... 役立たずは死ねだとよ」
「お前は黙っていなさい。 ... 嗚呼 ... カーツェル、何て事を ... 」
「でも、お前は、俺に生きていて、欲しいんだろ?」
「当然だ ... 」
「だからさ、本物の、化物に ... なってでも ... 」
「馬鹿を言うな。私がそうはさせない!」
「俺な、知ってんだ。初めて、お前に会った日。そう差し向けたのは、兄貴 ... 」
「言うな ... もう、何も ... 」
生まれた時から存在価値を疑 われてきた。
兄弟という言葉の他、関係を言いあらわすとするならば。
如何 に利用するか、されるか。
「お前となら分かち合えるかもしれない。
なんて思ってたのかもな ... ...
奴等 にとっちゃ、都合が良い。
親 しみを邪魔されずに済むなら、利用されようが、どうでも良い。
俺も、そう思ってた ... けど」
グ ... ...
痙攣 を起こしはじめ、呻 き崩れるカーツェル。
フェレンスは彼を支え、共に膝 を付いた。
そして、食い千切らんばかりに下唇を噛みしめる口元から ダラダラ と、
血が滴 り落ちていくのを見ながら、印 を綴 る。
「よせ ... カーツェル、口を開きなさい」
呼吸困難、咳。赤味の強い喀血 。肺出血を起こしているのだろう。
痙攣 を弱めなければ窒息しかねない。
「カーツェル ... 」
名を呼び顔を横に向け、法を胸に宿 す。祈る思いだった。
「ダメね ... 」
ところが水を差 してくる。
ロージーは一言投げかけ、前に出た。
「来るな!! ロージー!!」
「けど、それじゃ、旦那様の御命 まで危 ういのよ」
「分かっている。だが手出しは無用」
「申し訳ありません。けど、容赦 しない。そのコが望んだコトよ」
「必要無い! 彼は私が ... 」
「らしくないわね。イヤなら御自分で始末なさいよ!!」
「下がれと言っている!!」
何ヲ 夢ニ 見テイル ノ ダロウ ... ...
蒼火ニ 瞳ヲ 灼 カレ ナガラ ... ...
遠目に見て思う。
少年はローナーよりも前に歩み出て、丸々と目を開いた。
「チェシャ。おいで」
呼んだのはアレセル。
馬車から降りた彼は、手を取り導 く。
「あの男が大量に飲み込んだと思われるカプセル薬は、
Ⅳ が精通する闇ギルド経由 の魔薬 。
君のように、血ノ奴隷として囲 われた者の生き血が原料なのです」
冥府ノ炎 がカーツェルの目を灼 き潰 していくのに、治癒が追いつかず為 す術 が無い。
蒼火に晒 されるフェレンスの手のひらも同様に、黒く凍てついていった。
魔物 化に伴 う生態反応を感知する帝国の探査塔 。
それは、国土中心を円周に置いた一定範囲内の〈異変〉を警戒している。
国境上空を浮遊 する巨大物体 の一角には観測者と管理役員が常駐 し、
政府機関、並びに軍部へ向け発信、情報を共有。
その日。
帝都を域 に含 む複数の探査塔から〈異変〉の通知を受けた上院官邸 は、厳戒令 を宣告した。
軍に司法、行政の一部統制を委 ねたのだ。
「観測データの値 は既 に〈超級変異体〉のそれと酷似 しています。
魔導防壁にりよる区画閉鎖だけで封じきれるものでしょうか」
「不可能だろうな。だが、問題は無い。
見境 の無い相手であれば、こちらも加減せずに済むというもの。
徹底的に追い込むんだ。そうすれば ... あの魔導師は帝都を立ち去るより他無くなる」
「まさか、たったそれだけのために死に目を見るとは思ってもみませんでしたが ... ... 」
艦隊指揮官が恐々 として見やると、せせら笑う男。
紅の一つ結 いを右前に垂らし、足を組み替 える様子を伺 っていると。
不服に対し、男、フォルカーツェはこう返した。
「安心しろ。お前なら例え死んでも〈全くの無駄〉 という事にはならない」
波及 の中心に立つ者の袖 の一振り。
たかがそれだけの動作で、幾千 の人々が藻掻 くかのような事変。
それら大勢の苦しみを昇華 するだけの力と時間を得 るためには、必要な事なのだそう。
「だが、アレに関しては例外だ」
「アレ、と申しますのは ...
先日、往 くへを晦 ませた弟君と解釈 して宜 しいでしょうか?」
フォルカーツェは聞いた素振りも見せぬまま続ける。
「彼ノ尊 の不都合と言えば、あの魔導師を虜 にして放さぬ存在。それに限る。
大層な役目だが、アレも我々の意図を理解したうえ自 ら買って出たのだからな。
あの魔導師の傍 に居る ... そう、たったそれだけのためにだ」
つまりは、制約に反するより以前から。
どう転んでも命が危ういと分かっていて、そうしていたという訳か。
この上なく虚 しい。
「無理ならば当然、懸 けた命を以 ち償 ってもらうだけのこと」
迷惑な話にも思えるが。
察 するに、誰かしらは差し向けられたであろう事案だ。
過激派の勢 から寝返った元・審問官の若造が、まず怪 しい。
修道院の教徒の中にも居そうなもの。
相手に弱みが無ければ、付け込みようもないのだから。
それにしても寄りにも寄って、この男 ... 現役の軍警副総監が軍事顧問 とは。
上級貴族及び上院議員 の勢も余程 の焦 りがあると見える。
前後に隣接 する通信室と制御室を見渡しがてらフォルカーツェを横目に、彼は思った。
だが ... 捨て駒 とは言え、超級。
彼 ノ魔導師を追い詰めるのに飛空艦隊で足りるものなのか。
不安を拭 いきれない。
探査塔から随時 、送信されるデータの流れに視線を戻せば、艦内に警報が鳴り響いた。
フェレンスは心を鎮 め、詠 う。
カーツェルの顔を懐 に抱 き。澄 みやかに。
膝 を付いたその場から フワリ ... 立ち登る旋風 に添 い、組み上げられていく魔法陣。
精霊達はロージーの後ろへと寄り集まり、見上げる。
樹木が枝葉を広げるように展開されていくその下で、フェレンスは細々と囁 いた。
「よく聞きなさい、カーツェル。 ... 今直 ぐ、何もかも忘れるんだ ... 」
すると、親愛なる男の瞳を灼 く蒼き炎が、
法を携 える手を弾 き飛ばし全身へと燃え広がる。
そして更 に、彼の身体 を宙に浮かせ筒 状の氷柱を形成していくのだ。
炎柱 が生じる極寒を内に封じようとしているのである。
行かせまいと手を伸ばすが届くはずもない。
フェレンスは喉元 まで迫 り上がる危機感を、飲み込むようにして息を殺した。
その後ろ姿を見つめ、ロージーが言う。
「瘴気 によって中毒を起こした人間の狂気は、負ノ思念の坩堝 。
冥府ノ炎 で灼 き尽 せないなら ... あのコは ... ... 」
見上げれば、カーツェルの手足の関節が有らぬ方向へと反 り返り、
皮膚は裂 け、筋 が ブチブチ と千切 れていった。
骨に亀裂 が走る様子まで目に見えるよう。
しかし血は流れない。
代 りに ブヨブヨ と醜 く膨 れ上がる肉塊 が衣服を破り、垂 れ下がっていくのだ。
靡 く外套 を脱ぎ捨て。
腰元 にしまっていた二尺半 の杖を取り出したフェレンスは、同時に耳を疑う。
何故 か真後ろで、カーツェルの声がした。
懐 かしい ... 幼年時代の呟 き。
『フェレンスが ... 俺を避 けるから。〈忘れて欲しい〉って言うから ... 』
いや ... 泣き声だ。
肺が潰 れていくような感覚。
萎縮 した心臓が、一度に大量の血を吐き出すように畝 る。
アレセルも同様に不整脈を起こし、表情を曇らせた。
胸元に爪を立て僅 かに蹲 る主人と管理官を交互 に見た上で、
重い腰 を上げたのはローナー。赤毛の少年に歩み寄り、彼は言う。
「坊 よ ... どうやら悠長 にしてらんねーようなんでなぁ。悪ぃが、ちょいと拝借 すんぜ」
取り出された注射器は小指ほどの長さ。
振り向いて針先を見る少年は、何も言わず無表情に一つ頷 いた。
一方ではフェレンスとロージーが睨 み合う。
『どうにかして欲しい。でも、忘れたくない ... でも ... 』
幻聴が相手の言葉を掻 き消していると分かり、耳元を強く打つと。
経緯を説 くロージーの話がようやく耳に入って驚 いた。
「あのコはね、言ったそうよ。貴方 に覚 られないよう、
〈想いを隠しておけるようにして欲しい〉 ... だなんて。バカよね、ホント」
「ロージー ... 何故 お前がそれを?」
対して即 、言い返す。
呆 れ果てるより、苛立 ちが勝 った。
「貴方 ね ... 恍 けるのもいい加減にしなさいよ!!
誰から聞いたか気になるのかしら!?
あのコに暗示をかけた偏屈爺 、本人に決まってるじゃないの!!」
例の霊草 売りの事である。
「 ビュェェェエェエェェ ... ッ グ シュン !!」
その時、盛大 なクシャミを飛ばしたのは噂 の老商人。
配達のため店を出たところ風に鼻を擽 られ、
背負い籠 から高々と霊草 が飛び上がった。
すると、区画閉鎖の開始を知らせる警鐘 が鳴り響く。
上空を見れば、複数の小戦艦に次 いで過ぎ行く駆逐艇 の底。
「さぁて、どうなるかのぅ」
フサフサ 眉 の下から覗 く鋭 い視線とは裏腹。
真っ青な光の印膜 が徐々 に降りて来る中。
老商人は呑気 に配達先へと向かいはじめた。
閉鎖域は店から数区画先の直 ぐ側だが、余裕綽々 。
まるで他人事 なのだ。
片 やフェレンスは一旦 、法の展開を断念し膝 を付く。
「 ハァ ... ... ハァ ... ... 」
目眩 と鼓動の偏 りを抑 えるため。
制御法を自らの胸に打ち込むが優先と判断した。
事を済ませ、呼吸を落ち着かせようとするフェレンスに対し、
ロージーは引き続き問う。
「旦那様 ? ... 貴方 、何度あのコに言ったの?」
〈忘れて良い〉
〈忘れるんだ〉
〈忘れて欲しい〉
「それで、本当にあのコが忘れるとでも思ってらしたの?」
一方的なやり取りだった。
「だとしたら貴方 、あのコ以上のバカを通り越 して、
純心を裏切ったうえ、見もせず踏みつけるような恥 知らずなのよ。
まぁ ... 貴方の場合、本当に知らないんでしょうけど」
使用人が主人に尋 ねる態度ではない。
傍 で聞いていても正直、腹が立つ。
そう思ったのはアレセル。
だが、あえて聞き流していた。
「あのコには、もうこれ以上、気持ちを隠しておける心の余裕なんて無い。
引き裂いて詰め込めとでも仰 るの ? ... ご覧 なさいよ、アレを!
まだ、あのコなりに努力しているようには見えますけどね。限界なのよ!!」
途切 れる呼吸を手で押して引き戻す。
フェレンスの額 には冷や汗が滲 んでいたが、ロージーは黙ろうとしない。
「それから、旦那様 ... 不躾 ですけど。
あたし、最後にどうしてもお聞きしたいことがあるの」
地に杖を突き、ユラリ ... 立ち上がる主人の答えも聞かぬうち。
質問を重ね、追い詰めるのだ。
「あのコは、これまで ... 何度、貴方を好きになったのかしら」
一つ。
「そして、貴方は何度 ... 」
そしてまた、一つ。
「ロージー ... もういい ... 」
答えようも無く、静かに押し止めるが無意味だった。
「よくなんかないわよ!
あのコは昔、あらゆる意味で貴方を愛してた!
なのに、もう二度と思い出せない!
かつてのあたしは、部屋の片隅 にあった、ただのチェスト。
でもずっと、あのコの声を聞いてた!
あのコはね、貴方 の傍 に居るためだけに想いを犠牲にしたのよ!
貴方が、あのコを突き放そうとしたりするから!
どこまでも健気 でバカなコよ ... なのに、
ねぇ、旦那様、どうしてなの? 本当は、貴方だって ... 」
悔 しくて、悔しくて、声が震える。
さすがのロージーも気詰まりした。
すると、ゆっくり顔を上げたフェレンスが苦しげに微笑む。
「辛 い話をさせてすまない。だが、もういい」
その様子を見ると堪 らず、大粒の涙が溢 れた。
「私が浅はかだった ... ... 」
掠 れても。その声は、そこはかとなく穏 やか。
始末すると口では言っても、そうそう踏ん切りが付くものではない。
当初、カーツェルの介入 を拒否していた精霊達の中で、唯一 、
理解を示 したロージーであるなら尚更 だろう。
そう思えば、何もかもが裏腹。
安心して良い ... ...
フェレンスは、ただ一言、答えた。
「彼は私が連れて行く ... ... 」
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