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第五章◆石ノ杜~ⅩⅣ
「 ツェ、ル ?」
呼ばれているのに気付かなかったのだろうか。
様子を気に掛け、階段の途中から降りて来たのはチェシャ。
杖 を腰 へと差 し戻すに次 いで、フェレンスは尋 ねた。
「他に何か、気になる事でも?」
けれど相手は、どこか上 の空。
「ああ、いや ... な。
色々と一掃 してくれるのは良いんだけど。
着いて早々 火事になったりしねーよなと思って」
壁際 を歩いて回る執事は、火元の発する煙 や音の有無 を気にしているよう。
所々 で床 に触 れてみたり。
背伸 びし天井裏を意識したうえ聞き耳を立ててみたり。
ああ、そう ... なんて、わざわざ言葉にはしないけれど。
チェシャもフェレンスも黙って見ていた。
しかし何やら、きりが無いようにも思えるので。
「心配だから、他の部屋も見て来る」
そう言い階段の小柱 を掴 んだ彼を呼び止め、要望 を呈 す。
「待ちなさい。見回りなら私が済ませよう。
お前は、チェシャに褒美 を用意してやってほしい」
すると思い出した。
幼子 と執事の視線はテーブルの上へと向く。
そこにあるのはフェレンスが置いた紙袋。
天辺 から艶 やかな姿を覗 かせている黄緑色の果実が、チェシャには輝いて見えた。
市場の果物屋は葡萄 と言っていたけれど。
それにしては随分 と粒 が大きい。
傍 まで来て見る二人は、あらためて目を丸める。
承諾 して直 ぐ流しに立つ執事役の背後には、椅子 に掛けた黒のダブルジャケット。
白いシャツの袖口 をたくし上げた彼は、果実を五粒ほど、もぎ取って洗う。
横には、ぴったりとくっ付いて背伸びする幼子 。
足場を用意してやらなければ、蛇口 にも手が届かなそうだ ... なんて考えているうち。
果実を持った手を振 り、サッ サッ と水を切って。
後ろの食器棚 から小さな硝子皿 を取り出し盛り付けは終了だ。
テーブルに置けば、水の滴 る果実が淡 い西日を受けて キラリ キラリ 虹 を返す。
カーツェルは両の腰 に手を当て思った。
よし。一段落 。
なのにチェシャは、その場に居ない。
あれ?
拍子抜 け。
さて置き、肩を落とした時だった。
流しの方で乱 れる水音。
〈 ジャジャ ... ジャジャジャ ... 〉
見れば、壁向きの洗い場 に居残 り、夕差 しを浴びるチェシャの後ろ姿。
あの食いしん坊 め、何をしている。
歩み寄 ったカーツェルは、黙って覗 き込んだ。
流れる水にやっとこさ届く ... 幼子 の手元を。
そして思い返す。
司書 との遣 り取りに全 くの無関心だったチェシャが、
その場を後 にするまで黙々 と何をしていたか。
主人と執事が気に掛けずにいられるはずも無し。
時々、目を配 ってはいたので。
彼の手の中にある物に対する興味も自然と湧 いたのだ。
よくよく確認してみたところ。
何かしらのタグプレートであるよう。
だが、それを喜んで手にする者などいない。
それが普通と思っていた。
カーツェルは暫 し、言葉を失う。
そう。ニコニコ と満面の笑顔でこちらを振り向き、
まるで宝物を見せるかのようにする幼子 は ... 特別なのだ。
何せ、それは ... 帝国の管理省庁が発行した 奴隷 の登録証票 であるからして。
一方 。
木の梁 ぞいに外壁を伝 う蔓 植物が、二階の窓際を横へ向かい花を咲かせる。
その手前をフェレンスは歩いた。
燻 っている箇所 はないだろうかと。
こまめに立ち止まっては、隅々 まで意識を傾 けながら。
正直、機器の不具合によって認知 される事例だってあるのだから、
予 め想定したうえ仕掛ける場所に応じ対策されていて当然と思う。
そうでもなければ情報機関の仕事として恥 ずかしい。
とは言え ... ...
執事役を務 める心配性の気掛かりを減らしてやるためだ ... 仕方ない。
彼は思った。
対面に並ぶ三部屋も念入りに見て戻るとしよう。
奥間 の扉を開くと、正面には間仕切り。横にはティーセットや書籍の置かれた角棚 。
隔 たる中央には低卓 を挟 む一人掛けソファーが一組 。
角部屋なので窓は二つ。入り口向きの机。
棚は数段下の天面が窓の下を通り、対 の角棚 まで続いていた。
窓から遠い壁際には天蓋 付きベッド。
クローゼットは勿論 、どれを取っても高価な黒檀 家具である。
硝子傘 の釣り照明 はワインレッドの階調 を纏 う宝石のよう。
火の気配は何処 にも無かった。
破壊されても他所 の破損に至 らず、機器の存在が全く目に見えないところは流石 と言える。
だが、一階の二間 はどうだろう。
自分だけならともかく、小さな子もいるので。
安全に関 する手間を省 く事だけは出来ない。
カーツェルなら、そう言うだろうか。
フェレンスは足早に階段を降 りていった。
すると、ほんの一瞬 ... 目元を掠 める反射光 。
息を呑 み振り向く。
彼は思い出した。
一時 前にも同じ事があったと。
だが紳士の話に耳を傾 け集中していたので。
考えないようにするしかなかったのだ。
それが今になって胸を揺 さぶる。
碧眼 を貫 くように差 した光が、かつての記憶を呼び覚 ました。
思い出の中に佇 む彼 の尊 の胸元には、同様 の情報鑑札 が輝いている。
魔青鋼 の放 つ輝きは独特で模倣 し難 い。
構造色 を有 した蝶 の翅 のように。
それは、光がどう干渉するかにより見られる色の変幻 であるが。
昼間の自然光では碧青 に透 ける硝子 のようでいて、
波長の長い赤色光 をより多く受けた場合には、同色の金属光沢をあらわすのだ。
より眩 しく、より美しい。
青 ... 蒼 ... 碧 ... ...
ところが、どうした事だろう。
フェレンスは見回りの途中であった事も忘れ、光の差 す方へと向かった。
足音を聞きつけ見やると。
幼子 の手元を見る彼の目は、いつになく冷ややか。
「ああ、早かったな」
「 ... ... 」
声を掛 けても反応無し。
少し様子がおかしい気はした。
けれども、こればっかりは察 しがつかない。
まさかの元・帝国魔導師が、火の始末程度で血相 を変えるはずはないし。
それともチェシャが何かしただろうか ... と思いながらも、様子を見るに留 まる。
カーツェルは更 に一つ尋 ねた。
「何か怪 しいモノでも見つけたか?」
返事も無し。
そんな主人の次の行動を誰が予測できただろう。
赤毛のおチビが慕 う男は、燦々 と煌 めく瞳に目もくれず。
小さな手に収 まった鑑札 ばかりを見つめている。
それは正 に ... チェシャの宝物だったのだ。
けれども彼は周りの空気を一切 、読まず。
幼子 が見せてきたペンダントを手に取り、一呼吸おいて。
大きく振 りかぶったかと思えば。
〈 ブン ッ !!〉
風切音 が立つほど力一杯 ... 投 ―――― げた ―――― 。
... ... もとい。
投げてしまったのだから、それはそれは驚 いたと言うか。
驚き過 ぎて。
開 いた窓の外へ山なりに飛んでいく様 を真顔で見送る二人は、
庭の一部になっているかのような溜池 に、それが落ちて沈んでも声すら上げなかった。
「 ... ... 」
「 ... ... 」
「 ... ... 」
鳥の囀 り、池の水音 。
聞こえるのはそれだけ。
ただ単に思考が追いついていないだけではある。
二人は、こう思っていたに違いない。
いったい何が起きたのかなと。
対し、フェレンスは理由も言わずに立ち去ろうとした。
その時。
カーツェルの脳裏 を過 ぎったのは、フェレンスの居ない僅 かな間 に聞いたチェシャの片言 。
『 コ、レ! チェシャ、ノ! チェシャ、ハ、シャマ、ノ ... ナ、ノ!』
本当に嬉 しそうに、赤毛のおチビはそう言った。
これがあればフェレンスの傍 にいられる。自分はフェレンスのものなんだ。
上手く言葉に出来なくても、気持ちは伝わっている。
カーツェルであればこそ、共感もした。
『ああ― 。じゃあ、俺たち仲間だな』
などと握手 を求めたりなどして。
言葉を交 わしたばかりだったのだ。
それなのにどうして、こんな事になるのだろう ... ...
「なぁ。待てよ」
カーツェルは静かな声でフェレンスを呼び止める。
応 じる相手は立ち止まったきり。
振り向く素振 りもなく。
上手 く話せる気がしないのだ。
しかし彼は問い掛 ける。
「今さ、お前 ... ... 投げたよな」
「他に何をしたように見えた?」
案 の定 、確認するだけの会話になりそうだった。
「いや。でも ... ... どうすんだよ、アレ」
言葉を失いかけるたび、裏腹な呆 れ笑いが込 み上げる。
「どうもしない。あのまま池 の底で眠ってもらう」
「それってさ ... ... つまり」
捨てたってコト ... ... ?
だが持ち主に聞かれたくはない。
言い留 まった。
けれども相手は、こう返す。
「必要のない物をいつまでも身に着けていたって、仕方 がないだろう?」
口切りの一言が耳に触れるなり、首筋が張 り詰 め脈 を走る血を打ち上げた。
話が下 りきらぬうちから立ち返るカーツェルは、
椅子 どころか卓 の角まで押し退 け間近 に迫 る。
「必要ないだと? ... ... お前!!」
フェレンスの胸座 を掴 み上げる手が震えた。
そして声も。いつだってそう。
場合によっては逆上しているところだが、相手が相手。
時として人間味 を欠 く言動が、ただ ... ... 物悲しくて。
彼は声を引き絞 る。
「あれほど言ってた気遣 いはどうした!?
確かに奴隷証票 なんて禄 なもんじゃない、けどな!
肝心 の持ち主が、それをどう思ってるか ... ... お前、一言でも聞いたのかよ!?」
一般的価値観、常識と言われるような固定観念 に囚 われぬ存在。
自由思想を実体化したかのような男に何があったのだ。
気でも触 れたか。
立場や意見の異 なる者に対し、相互理解を求め取り入るでもなく感慨 に浸 る。
いつもの思慮 深さは何処 へ行った。
思っても言葉にならない。
それでいて、ゆくりなく。
意表 を突 かれた彼は息を呑 む。
視線をぶつけた碧 い瞳 が一回 り大きく開いたうえに、動揺の色を浮かべたものだから。
驚 いたらしい。見たことのない光景だったのだ。
だが例によって、どこか懐 かしくて ... ... 心痛 が絶 えない。
「つーか。どうしてお前が、そんな顔 ... ...
あのさ、ビックリしてんのはこっちなんだけど ... ... 」
脱力する手元。
添 えられる指先。
彼の手を取り、腕を下ろしてやりながらフェレンスは言った。
「カーツェル。あれは奴隷 の登録証票だ」
「んな事ぁ分かってるよ」
「血ノ魔力を利用され、従属 する羽目 になった挙 げ句 。
低俗 と見做 されたも同然 。
かつ人権保証も一切 、受けられない身の上であることを示 す物。
対して、嫌悪感を抱 かない者がいると言うのか?」
自身の動作を見流す目向き。
ゆっくりと戻って来る視線を見つめ返し、カーツェルは答える。
「何に代 えても、お前の傍 にいる事が重要だったりするのかもな。
奴隷だろうが何だろうが、お前の役に立てるってコトが嬉 しかったりさ ... ... 」
「 ... ... 」
「いや、黙るなよ」
口を閉ざしたままのフェレンスと向き合ったままだと、何だかバツが悪い。
何が言いたいの ... ... ?
思っても言えずにいると、ようやく言葉が返ってきた。
「お前じゃあるまいし ... ... 」
しかし聞き捨てならん。
「何だよその言いぐさは!?」
咄嗟 の喧嘩腰 。
それなのに相手ときたら、はにかんで笑っていたりする。
小首を傾 げ俯 き加減に。
些 か上目遣 いで。
ほんと何 ... ... !?
衝撃 が走った。
相手の他愛無 い動作で一々 息が止まってしまうのだ。
自覚した瞬間。言うべき相手は自分自身とすら思う。
どうしてか気恥 ずかしい。
「つーか ... ... そんなんで喜んだりしねーし。俺は ... ... 別に ... ... 」
その上、引用 する言葉を間違 えた。
意味は同じだけど。
頭では分かっている。
早々に話題を戻すべきではないだろうかと。
言葉にして言えなかった先頃 の事。
念押 しすべき点は山ほどあったはず。
なのに全 て吹き飛んでしまったのだから。
ともあれ、目を逸 らすしかなくて。
対し、フェレンスが追い打ちをかけることはなかった。
彼が思い詰 めてしまわぬよう、一歩引いた目線で佇 む。
すると、引き付ける幼子 の声が耳に入った。
「 ... ... ヒッ 。フッ ... ... 」
二人の会話を上 の空に聞きながら、状況 を把握 するに至 ったのだろう。
振り向く両者は共に口を閉 ざす。
「 ... ... ウッ 。ウッ ... ... 」
憂 き目に遭 ったというのに長らく堪 えていたよう。
だが、とうとう限界を迎 えたらしい。
「 ヒグッ ... ... ビエェエエェエェェエエェェェ ... ... !!」
狙 われ、人を避 け続けることに慣 れ過 ぎているばかりか。
徒歩による長旅すら物ともせず。
食うに困ったって文句 一つ言わなかった子が、声を上げて泣いている。
幼子 が失ったのは、宝物に纏 わる夢物語だ。
あの日。
フェレンスのもとへと導 くかのように林の中を舞 った ... ... 蒼碧 ノ蝶 。
光の粉 を撒 き散 らす翅 の輝きが、そのまま宿 り。
まだ浅い絆 を補 ってくれたのかもしれない、だなんて。
想像して、浮かれていただけ。
大丈夫。そのままで良いと。
許 された気になって。
チェシャには、無理に付いて来てしまった引け目がある。
無いはずはない。
それを少なからず和 らげていたのが、あの証票だったのだ。
幼子 を悲しませているのは消失感に勝 る何かだと、カーツェルには分かる。
主人のほうは ... ... どうだろう。
泣く子に心を配 るフェレンスの瞳 は憂 いて見えた。
知るほどに興味が増し、惹 かれ。
心を通 わせたい、そんな気持ちにさせられる。
なのに伝わらない。
フェレンスには分からない。
何よりも悲しい事実だ。
幼くして知った子にかける言葉すら見つからないというのに。
一体どうしたら ... ... 。
「どうしたらいい ... ... 」
その時、カーツェルは耳を疑 った。
一瞬、胸の内を読まれたのかと思ったが。
どうやらそうではなさそう。
切実 な表情で尋 ねるフェレンスと向き合ったところ、不思議と胸がすいていく。
通わなかった心の行き場所。
その扉が少しだけ開かれたかのよう。
ハッ ... ... と、細く息を吸うカーツェルは、
緊張によく似 て異 なる、奇妙 な感覚を覚 えた。
ゾワリ ... ... 身体 の隅々 に渡る筋 が張 り詰 る。
時を同じくして、クロイツもまた同じように息を呑 んだ。
そして今一度 、考察する。
帝国〈過激派信教徒 〉の連中が、
奴等 〈高位貴族、及び上院議員 〉と
一時的に通じた異端ノ魔導師へ、猶予 を与 える理由について。
奴等 がそれを知っていて利用したのは明白。
血ノ奴隷を保護させるために違いないのだ。
しかし裏切りに及 んだアレセルの行 いは、
そういった目的が名目に過ぎない事を示唆 している。
下僕 は疎 か血ノ奴隷の命までも盾 にし、
連中の手出しを免 れる必要があった。
奴等 にとって都合の悪い事と言えば何か ... ... そう考えると。
尊 が望むまま主従 の契約を断 つ事も視野に入れ、
訪 れたと思わしきバノマン枢機卿 との一場面が彷彿 とした。
すると気が付く。
主従が引き離されては困 る。
もしそれが第一の動機であるなら ... ... 全て辻褄 が合うのではなかろうかと。
「お気付きですか?」
察 し言葉を添 えたのは対面するアイゼリア王太子、ウルクアだった。
「魔導兵の日常的応対能力の検証を申し出た人物は、紛れもない監視対象であり。
私達は、貴方々 の敵視する勢力と何かしら接点があるものと見て調査中です」
「帝国の内通者か ... ... 寄 りにも寄って奴等 の ... ... 」
「ですがまだ、確証はありません」
「 ... ... 」
「違いないと、お考えですか?」
「我々 を捕 らえるよう私の弟、アレセルに命じたのは奴等 だ。
従 うふりと見抜 いて機転を利 かせたのは他でもない、異端ノ魔導師」
「なるほど、そういう事でしたか。さすがです ... ...
これに限 る話としても、あなたなら協力して下さると。そう判断なさったわけですね」
会話中にも拘 わらず項垂 れる。
クロイツの顔つきとくれば険悪 そのもの。
横目に見るノシュウェルは、ゆっくりと前へ視線を戻す。
「奴等 の掌 で踊らさせるのだけは御免 だ」
聴いたことのない低声 で発せられる元上官の呟 きに青褪 めながら。
同感と言えば同感。なのに鳥肌が立つ。
怖い怖い怖い怖い。怖いって。怖いよ。
他、同志二名の心の声まで聞こえてくるようだった。
色んな意味で居たたまれない気持ちにもなる。
クロイツの心情に配慮 しノシュウェルが折り返した。
「つまり、あなたの弟君 は、こう言いたいわけですな」
あの男が異端ノ魔導師を手懐 けるまでに、痺 れを切らした奴等 の手引きがあるやもしれぬ。
「〈警戒せよ〉と ... ... 」
以降、この密会においてクロイツの代理を果 たしたのは彼。
魔導兵の身辺における監視強化に協力するかわりとして。
同盟関係にある間 に限 り、得 た情報の全てを共有する事を約束された形。
そこまで分かっていても策略 を見通すまで至 らぬと言うのか ... ...
クロイツは俯 いたきりだった。
時折その様子を窺 うノシュウェルもまた、ふとして思いを馳 せる。
さて、当事者達は今頃どうしているだろうかと。
一方こちらは、まさかの事態 だ。
「 ヒッ ングシュ ... ウェェェェェ ... ウッ ウッ ... ... ビェェェェ !!」
チェシャは泣き止 まない。
息を吸い上げるたび上下する肩。
ふっくらとした頬 を伝 い落ちる涙。
夕刻の陽は池の向こうに立つ木々の間 から差 し。
照 らし出された幼子 の背を振り向いて答えを待つフェレンスの横顔は、いつになく表情豊 かに見えた。
替 えて言えば、落ち着きがない。
あちらこちらと視線が泳 いで、眉尻 も上がったり下がったり。
初めて見たような、そうでないような。
カーツェルは思った。
そうか、こいつがいつも落ち着き払 っていられるのは、
どうすれば良いか判断するに足 る知識があるからであって。
未経験だったり見聞きする機会が無かった事柄 に対しては ... ... ああ、そうなんだ。
いくら考えても分からないのだから、そりゃあ焦 るよな ... ... そんな事もあるんだ。
気が付けば、ゾクリ ... ... 腰 の上、やや後ろ側を掻 き上げられたかのように背筋が震える。
覚 えのある感覚だ。
しかし何度目か分からない。
心ともなく歩み寄 っていた彼は、フェレンスの耳元まで顔を伏 せ。
一言、こう尋 ねる。
「 ... ... 知りたい ... ... ?」
囁 きを耳にし、振り向きかけた相手は留 まって。
一度だけ頷 いた。
その瞬間、視界が僅 かに振 れ。
言い知れぬ何かが意識下を掻 き乱 す。
まただ ... ...
何を見た。
おそらくは記憶 ... ...
聞いた気もする。
人の声だったような ... ...
現状と似 たような場面だった。
しかし誰のソレかもあやふやなのに。
深く考えたところで、どうしようもない。
素行 に支障 を来 しかねない現象は、日に々頻度 を増 している。
けれど深く息を吸い、カーツェルは気持ちを切り替 えた。
今はそれどころではないのだ。
そうこうしているうち一歩前に踏 み出しかけるフェレンス足先。
ところがどうして、ゆっくりと元の位置へ戻っていくのだから見ていて歯痒 い。
対話を試 みるかどうか迷っているのだろう。
今は話したくないなどと拒絶 される可能性があるからだ。
ともあれ、もう一度。
幼子 の気持ちを精一杯、想像してみる。
潔 く詫 びたところで、
分かってもらえなかった悲しみ、暗い気持ちが直 ぐに晴れるわけもなし。
しばらくは引き摺 るに違いない。
けれども何かしなくては。
放置された感情が諦 めに変わってしまう前に。
然 れど、分かってやれるようになるかどうかも分からない。
努 めはする ... ... けれど。
そもそもが〈許される〉〈許されない〉の問題ではなさそう。
時間が欲しい。もう少し考えたいと感じた。
ならばせめて今のうち、池 に放 り投げてしまった物を回収しておこうかと思い立つ。
フェレンスが掃 き出し窓の外へと手を向け、印文 を記 しかけた時。
取り上げるようにして腕 を掴 み遮 ったのはカーツェルの手。
見ると彼は、首を横に振 る。
そして言った。
「こうしてる間 に見つけ出しておくのは良いと思う。
けど ... ... どうせ暫 く考えたいんだろう?
なら、もう少しゆっくり探してみても良いんじゃねーの?」
制 した腕 を再 び下ろし、手元へ向かって滑 りゆく掌 。
触れ合う指先を目で追っていると、更 なる深みに嵌 っていく思いがした。
そうする事に何の意味があるのだろうか ... ...
考え込むばかりでは埒 が明 かないというのに。
やれやれ ... ...
池を見やりながら思い切る。
カーツェルは、こう話した。
「何と言っても、やっちまったもんは仕方ねーしな」
人間味が出てきたとは言え、まだまだ。
首を傾 げる主人の姿が心許 なくて。
彼はあらため腕捲 くりする。
「俺も手伝うよ」
そう彼は、池 に入り自力で探し出すつもり。
先に行って手本を見せてやろうとしたのだ。
ところが。
ベストの裾 を摘 ままれた気配がして立ち止まる。
振り返った彼の目に映 ったのは、すっきりと明るい表情で応 えるフェレンス。
「分かった。カーツェル ... ...
だがお前には、あの子の傍 に居 てやって欲しい。捜 すのは、私が」
瞳に宿 る碧青 の輝きは、嬉々 とし踊 るかのよう。
カーツェルは目を奪 われた。
ロングジャケットの留 めを外していく指先。
主人の脱 いだそれを預 かる間 も。
下僕 の心、此処 にあらず。
底 に何があるか分からないので、両袖 以外はそのままにして水に入っていく。
フェレンスの後ろ姿を這 う視線は、着込まれた一つ々を通し見た。
上から順 に。
スカーフを返すハイカラーシャツ、オープンバストコルセット背面の網目 と、
フィットスラックス、そしてニーブーツガーター。
言われた通り幼子 の傍 まで後戻りするのも、やや上 の空。
振り向きもせず器用 に寄 ると。
息を喉 に引っ掛けながら休み々泣き続ける子が、彼の袖 を ギュッ ... と掴 む。
捜 し物を見つけるまで、二、三十分。
風邪を引かせてしまうのではと心配したものの。
カーツェルは黙って見守り続けた。
定期に落ち葉を浚 うなどし、よく手入れされた池 だったが。
底に砂利石が敷 き詰 められていたうえ、
平たいタグプレートが大きめの石の下に潜 り込んでしまっていたらしく。
日没寸前 までかかり、ようやく見つけたよう。
こちらを向いてペンダントを掲 げるフェレンスを見て胸を撫 で下ろすと同時。
泣き疲れた子が膝 の上に突 っ伏 して寝てしまっていた事に、初めて気が付いた。
底 に手を伸ばしたことで、肩口 まで浸 かったシャツは胸元まで水を吸い。
辺 りへ引き返す身体 も略々 ずぶ濡 れなのに。
彼の主人は、優しく微笑 む。
タオルを差し出したところ、広げる動作ですら水が飛んだ。
更に一通 り身体 の水気を拭 い終えると、
湯を炊 く火ノ香 を頼 りに浴室を探すフェレンス。
泣く子の様子を見ながらでも、風呂の準備くらいは出来たので。
良かった ... ...
それにしても、不思議でならない。
寝息を立てる幼子 の髪に手を添 えながら、カーツェルは思った。
先頃の事についてだ。
どうしてフェレンスは何も聞かず、嬉 しそうにしていたのだろう。
どうして ... ...
どうして俺は、その理由を聞けずにいるのだろう。
自身の身 の振 り方を、他者に尋 ねるなど。
況 してや委 ねるなんて。
今迄 で言えば、考えられない事なのだ。
そればかりか、思慮、質疑、理解の過程も扠置 いて行動するなんて。
奇妙 ですらある。
待っている間 ずっと考えていたのだ。
しかし答えは出ていない。
ただ、ずっと ... ... そう、ずっと昔から ... ...
薄 っすらと夢に描 いていた出来事が、実際に起きた。
それだけは確かであって。思い返すたび、何故 なのか胸が締 め付けられる。
「何だよ、まったく ... ... 」
カーツェルの頭の中は、懐 かしさで溢 れた。
予 てより。
長期遠征 から帰還 するフェレンスを待 ち構 えては、
諸事情 、云々 、言い争 いながらも。
これだけは決して口にせず、心にしまってきた展望 と共 に。
――― 俺の言うことを少しでも聞けるようになれば上出来だ。
いずれは、何があっても手放したくない存在であると認識させてみせる。
そして繰り返した。
「上出来 じゃねーか ... ... 」
その時、彼が抱 いた情 を何と呼べばいいだろう。
彼の異端ノ魔導師に対する執着心 は、独占欲 とも取れる。
口にして言う事への抵抗は、その為 なのかもしれない。
それでいて、あの男には自覚が無いのだと、クロイツが憂慮 するほど。
彼の深層心理に架 けられた錠 は強固であり。
にも拘 らず、表面意識に作用し続ける情念 の甚大 さたるや、計り知れない。
カーツェルにとっても同様である。
胸のどこからか、軋 む音が聞こえてくるようだった。
声を上げたら、何もかも全て崩 れ落ちてしまいそうな ... ... この感覚はまるで。
幾多の空闊 を抱 える石ノ杜 。
反響振 による崩壊 を恐れ、息を潜 めるように。
彼は口を閉ざした。
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