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第16話
疲れた身体に大沢からの一言は思った以上に響き、雛森は仕事を切り上げて馴染みの店へと来ていた。他の店に行く選択肢は雛森にはなく、いつだってこの店に来てしまう。
程よく落とされた照明に落ち着いた雰囲気。店員もよほどのことが無い限り話しかけては来ず、一人で静かに過ごせる場所。
カウンター席に座り、煙草を燻らせていた雛森の背中を誰かがなぞる。
「また英良ちゃんに会えた。今日は二回目だね」
「南さん……最悪」
「そう? 僕は最高の気分だけれど」
どうしてこうも南に会ってしまうのか、それは雛森がこの店を選んでしまうからだ。というのも、雛森と南が初めて会ったのがこの店だった。
まだ今の会社に入社して間もない頃、偉そうな新人としてやっかみを受けていた雛森がやけ酒をしていた時に南がやって来た。それは一年ほど前の出来事で、あの頃から南は何も変わっていない。
いつだって軽薄で腹の内を見せない得体の知れない男だった。
「こうしていると初めての頃を思い出さない?」
まるで雛森の頭の中を覗き見たかのように、南が訊ねてくる。流れるように隣に座り、ちゃっかりと一緒に飲む姿勢だ。
「思い出しません。というか忘れました」
「それは酷いな。僕は英良ちゃんとの思い出なら全部覚えているのに」
南の言葉に雛森は鳥肌を立てた。どうしてこうも歯の浮くような台詞ばかり言えるのか、理解に苦しむ。
「思い出話とか気持ち悪いんでやめてもらえます?」
「どうして? 思い出は思い出でしょ。僕の心も身体も、ちゃんと英良ちゃんを覚えているよ」
「へぇ。会ったその日にホテル連れ込んだ相手を? あんた俺が同じ会社で働いてるって知らなかったくせに」
「それなんだよね。英良ちゃんほどの美人を見過ごすなんて信じられない」
見過ごしたんじゃない。見ていなかったんだろう、と雛森は言ってやりたくなった。
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