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第22話

「どうぞ。まだ手は付けてないから」  そう言った南の手元は、食べ始めた時と変わらない状態のままだった。 珈琲だけを啜っていた男が「食べるなら他のもどうぞ」と勧めてくる。 「もしかして朝飯は食べない派なんですか?」  訊ねた雛森に、南は否定とも肯定ともとれる素振りで答える。曖昧に首を傾げたのだ。 「別にあんたのことなんか、どうでもいいけど」  大して興味を持てなかった雛森が食事を再開する。 ずっと笑ったままだった南の口元が、形を変えた。微笑むような表情から何かを企てるそれに変わる。 「英良ちゃんさ、僕に借り作っちゃったね」  南が浮かべたのは人の良い笑顔。それなのに雛森の表情は冷めていく。 元々が冷めきっていたのが、今ではブリザードまで吹くのではないか、と錯覚するほどに冷え切っていく。  動かなくなった雛森に、南は「あれ?」といやに明るい声をかける。 「もしかして僕が何の見返りもなく助けたと思った?」 「思うわけないだろ」 「だよね。世の中そんなに甘くはないって、頭の良い英良ちゃんなら知ってるもんね」  一体南が何を言いたいのか、雛森は探るような視線を向ける。曲者の南ならば、そう簡単には教えてくれないだろう。厄介なことになった、と雛森は舌をうった。  しかし意外にも南はすぐに口を開く。 「お礼というか、ご褒美が欲しいなって」 「褒美?」  聞き返した雛森に南はしっかりと頷いた。意志の強い男らしい瞳が爛々と光り、雛森を見据えて告げる。 「一日一つ、僕のお願いを聞いてほしい。もちろんずっとじゃなく……そうだな、今年いっぱいでどう?」 「……は?」 「あと一ヶ月ちょっとだから平気でしょ?」  たかが一晩泊めてもらっただけの代償としては大きすぎる。 雛森は目くじらを立てて南と応戦した。けれども南は笑みを崩すことはなく、発言を撤回もしない。 「意味わかんないんですけど。誰がそんな無茶な条件のむと思ってんすか」  嘲笑を浮かべた雛森が南を軽蔑の眼差しで見て言った。けれど真正面から向けられる、南の瞳の強さは変わらない。 「英良ちゃんはのむよ。いや、のまざるを得ないが正しいかな」  南がゆっくりと右手を顔の高さまで上げた。それの指を二本、立てる。 「ご褒美のうち一つはさっき言った一日一回僕の言うことを聞く。それが嫌なら、仕方ないけど代替案でいいよ」 「代替案? どうせ好きな時に抱かせろとかでしょ」  下衆な南らしい。そんな回りくどい言い方などしなくても、今だって気ままに手を出してくるくせに。 蔑んだ雛森は、南を相手にすることはやめてサラダを手に取る。 「千葉って誰?」 南のその一言で、雛森の動きが止まった。食事を摂るそれだけでなく、瞬きすら忘れたかのように固まる。そんな雛森に南は言葉を続ける。 「昨日、僕のことを千葉って呼んだよね? それに酷く驚いた顔をしていたし……ねぇ英良ちゃん、千葉って誰?」  目を見開いたままの雛森は、頭の中で昨日の自分を叱責した。 寝起きだったからとはいえ、この男と『あの人』の姿を重ねてしまったことが悔やまれる。そして、よく考えもせず名前を呼んでしまったことが情けない。 「英良ちゃん、千葉って誰?」  三回目の南の台詞に、ようやく自分を取り戻した雛森が顔を上げた。

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