22 / 69
第22話
「どうぞ。まだ手は付けてないから」
そう言った南の手元は、食べ始めた時と変わらない状態のままだった。
珈琲だけを啜っていた男が「食べるなら他のもどうぞ」と勧めてくる。
「もしかして朝飯は食べない派なんですか?」
訊ねた雛森に、南は否定とも肯定ともとれる素振りで答える。曖昧に首を傾げたのだ。
「別にあんたのことなんか、どうでもいいけど」
大して興味を持てなかった雛森が食事を再開する。
ずっと笑ったままだった南の口元が、形を変えた。微笑むような表情から何かを企てるそれに変わる。
「英良ちゃんさ、僕に借り作っちゃったね」
南が浮かべたのは人の良い笑顔。それなのに雛森の表情は冷めていく。
元々が冷めきっていたのが、今ではブリザードまで吹くのではないか、と錯覚するほどに冷え切っていく。
動かなくなった雛森に、南は「あれ?」といやに明るい声をかける。
「もしかして僕が何の見返りもなく助けたと思った?」
「思うわけないだろ」
「だよね。世の中そんなに甘くはないって、頭の良い英良ちゃんなら知ってるもんね」
一体南が何を言いたいのか、雛森は探るような視線を向ける。曲者の南ならば、そう簡単には教えてくれないだろう。厄介なことになった、と雛森は舌をうった。
しかし意外にも南はすぐに口を開く。
「お礼というか、ご褒美が欲しいなって」
「褒美?」
聞き返した雛森に南はしっかりと頷いた。意志の強い男らしい瞳が爛々と光り、雛森を見据えて告げる。
「一日一つ、僕のお願いを聞いてほしい。もちろんずっとじゃなく……そうだな、今年いっぱいでどう?」
「……は?」
「あと一ヶ月ちょっとだから平気でしょ?」
たかが一晩泊めてもらっただけの代償としては大きすぎる。
雛森は目くじらを立てて南と応戦した。けれども南は笑みを崩すことはなく、発言を撤回もしない。
「意味わかんないんですけど。誰がそんな無茶な条件のむと思ってんすか」
嘲笑を浮かべた雛森が南を軽蔑の眼差しで見て言った。けれど真正面から向けられる、南の瞳の強さは変わらない。
「英良ちゃんはのむよ。いや、のまざるを得ないが正しいかな」
南がゆっくりと右手を顔の高さまで上げた。それの指を二本、立てる。
「ご褒美のうち一つはさっき言った一日一回僕の言うことを聞く。それが嫌なら、仕方ないけど代替案でいいよ」
「代替案? どうせ好きな時に抱かせろとかでしょ」
下衆な南らしい。そんな回りくどい言い方などしなくても、今だって気ままに手を出してくるくせに。
蔑んだ雛森は、南を相手にすることはやめてサラダを手に取る。
「千葉って誰?」
南のその一言で、雛森の動きが止まった。食事を摂るそれだけでなく、瞬きすら忘れたかのように固まる。そんな雛森に南は言葉を続ける。
「昨日、僕のことを千葉って呼んだよね? それに酷く驚いた顔をしていたし……ねぇ英良ちゃん、千葉って誰?」
目を見開いたままの雛森は、頭の中で昨日の自分を叱責した。
寝起きだったからとはいえ、この男と『あの人』の姿を重ねてしまったことが悔やまれる。そして、よく考えもせず名前を呼んでしまったことが情けない。
「英良ちゃん、千葉って誰?」
三回目の南の台詞に、ようやく自分を取り戻した雛森が顔を上げた。
ともだちにシェアしよう!