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第29話
「ああ、もう来てたのか」
雛森を一瞥したアヤの表情は一切崩れない。そこに雛森がいて当然と言っているようだった。
「アヤさん、遅れるなら遅れるって言ってくれないと困るんですけど」
「なんで?」
なんでもクソもないだろ、と雛森は心中で言い返す。出せない言葉の代わりに、またため息をつきソファへと身体を沈めた。
疲れ切っている今、アヤと言い合っても仕方ない。そもそも、雛森がアヤに反抗することはない。
「そうだ、ヒナにこれ買ってきた」
そう言ってアヤが雛森に寄越したのは、職場の近くにあるカフェ、南とも何度か行った店の包みだった。
茶色いその中を覗くと、そこには小さめのチーズケーキとカフェオレが入っている。カフェオレと断定したのは、雛森がいつも飲むのがそれだったから。
「……さすがですね」
ボソリ、と呟いた雛森は、袋から中身を取り出す。
こういうところがアヤは狡いと雛森は思った。
俺様で傲慢なくせに、気遣いが出来るところ。相手の好みを覚えていて、それをサラリと見せるところ。
十回に一回ほどの飴をタイミングよく与えるアヤに、雛森はやはり逆らえない。
まだ熱いカフェオレを口に含み、嚥下する。程よい甘さが口の中に広がり、雛森は無意識のうちに、ふっと笑った。
「雛森さんも甘党なんですか?」
訊ねてくる翼に何も答えず雛森はチーズケーキにかぶりつく。相変わらず美味い。
「ヒナは甘党っていうより、チーズケーキが好きなだけ。こいつ、好きなものはとことんハマるタイプだから」
雛森の代わりにアヤが答える。言わなくてもいいことを言ったアヤを雛森は皮肉で諫めた。
「俺は誰かさんと違って見境なく手は出さないんで」
「それは俺のこと? それとも南?」
カフェオレを飲もうとしていた雛森の手が止まる。それをゆっくりとテーブルに戻し、いつの間にか対面して座っていたアヤをねめつける。
「用ってそれですか?」
「そうだって言ったら?」
自分がどれほど睨んでも崩れないアヤの笑み。南とは違う、胡散臭さが無い分、黒さを全面に出したそれに、雛森は舌をうった。
「くだらない。そんな話なら帰ります」
立ち上がろうとした雛森の手首をアヤが掴む。細いくせに力の強い手に押さえ込まれ、雛森は再度舌をうつ。
全身で怒りを表す雛森と、余裕たっぷりにそれを見下ろすアヤに、翼はおろおろと慌てる。しかし、翼が慌てたところで二人に何か変化があるわけでもない。
「ヒナ、何か俺に隠してるよな?」
「別に隠してませんけど。アヤさん、そこのバカと付き合い始めてから勘鈍ったんじゃないですか」
「お前がそうやって言い返してくる時は聞かれたくないことがある時。相変わらずわかりやすいな」
「……わかってんなら聞かないでもらえます?」
一向に言い出す素振りを見せない雛森に、アヤは翼に部屋を出て行くよう命じた。
少しでも雛森が話しやすい環境を作るためだったのだが、雛森からしたら余計なお世話だ。
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