33 / 69

第33話

* 「雛森、お先」  目の前の仕事に集中しきっていた雛森は、不意にかけられた声に顔を上げた。 あまりに夢中になっていて気づかなかったが、いつの間にか部屋には自分と声をかけてきた同僚しかおらず、就業時間はとうに終わっている。  曖昧に頷いて答えた雛森は部屋に一人になる。そう言えば今日は南からの例の『約束』は来ていない。  忙しいのか、それとも今日は先約で埋まっているのか……どちらにせよ、雛森にとっては好都合だ。 このまま何事もなく帰ってしまえば、明日からは土曜、日曜と連休である。それならば、と途中の仕事を持ち帰ることにして雛森は席を立った。  普段よりも足早に会社を出て、足が進むままいつもの店へと向かう。 念のためスマートフォンの電源も切っておいた。もし週明けの月曜、南に文句を言われたとしても、そんなものは雛森の知った事ではない。  久しぶりの自由な時間に心は軽く、ピッチ早く酒を煽る。四杯目のグラスを空けた時、店の扉が開き外の冷たい空気が入りこんできた。 「あ、英良ちゃんいた」  とろりと甘い笑みを携えた南が店内へと入ってくる。げんなりした顔の雛森の隣へと、流れる所作で座り、雛森が立てないよう長い足で椅子を押さえつけた。 「あー……疲れた。今日ね、みんなで少し早上がりして飲み会だったんだよ」  そう言う南の顔はほんのり赤く、既にアルコールが回っているだろうことがわかる。 「へぇ、その割に早い解散ですね」  何時からその飲み会が始まったのかは知らないが、まだまだ日付も変わらない時間。南が一次会のみで抜けてきたことが意外で、雛森は南を見る。 「うん。部長を労うことがメインだったんだけど、その部長が酔いつぶれちゃってさ。さすがに主役なしの二次会は無理でしょ」 「労いってことは、南さんが次の部長で決まりなんですか?」 「そうみたいだね。予定より少し早かったけれど」  一部署を任されるというのに、全く動揺を見せない南に雛森は白けた視線を向ける。この男の心臓にはびっしりと剛毛が生えているに違いない、そう思った。  カウンターテーブルに両肘をついた南が深い息を吐く。よほど疲れているのだろう、初めて見る南の様子を雛森は観察することにした。  いつも絶やさない笑みは少しばかり力なく、緩めたネクタイが胸元で揺れる。 見るだけで高そうなスーツも、綺麗にセットされた髪型も変わらないが、どことなく隙のある南に雛森は油断した。  テーブルに置いていた手を奪われる。瞬時のことに反応の遅れた雛森を拘束した南は、二人分の料金として一万円をテーブルに残し席を立った。

ともだちにシェアしよう!