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第53話

 一瞬にして感情を昂らせた雛森は、持っていたペットボトルを南に投げつける。力任せに投げたそれは、南と大沢の間を通り廊下へと転がった。 「あっ、ぶねぇな‼ 何すんだよ雛森!」  怒気を露わにする大沢を無視し、雛森は南を睨みつける。すると、やっと視線を合わせた南はにっこりと笑って肩を竦めた。 「すみません、手元が狂いました」  あり得ない言い訳をする雛森に、南は何を言うでもなく転がっていたペットボトルを拾い上げた。 数回、宙に放って遊びながら南は雛森の前に立つ。  数日ぶりに面と向かって顔を合わす。数日ぶりに交わす言葉。雛森の鋭い視線を受けた南が、持っていたそれを手渡し、言った。 「水は投げるものじゃなくて飲むものだよ。僕、バカは嫌いだからごめんね……雛森くん」  水よりも冷たい言葉を落とし、南は大沢の隣へと戻った。 南を横に従えた大沢は、満足そうに雛森を見下す。  雛森は南がずっと疎ましくて、心の底から邪魔だった。どうして自分に構うのか、ただセックスがしたいだけなら他を当たればいいと思っていたのに……そう思っていた。  強引なことをして自分を振り回し、約束だといって拘束した南。ずかずかと土足で自分の中を荒した南。 「絶対に好きになるな」と言ったくせに優しくして、今度は「どうすれば好きになるのか」と聞いてきて。他に見せない顔を自分には見せたくせに。  最後は「バカは嫌いだ」と突き放す。 よりにもよって、自分の次に大沢を選ぶなんて、どれだけ性格が悪いんだろう……雛森は嘲笑した。  きっと明日からは『神上亜弥に捨てられて南に言い寄った挙句、南聡介にも捨てられた雛森英良』が噂されるだろう。 もしかしたら、そこに『仕事でミスしてどうしようもないクズ』も足されるかもしれない。 どんな悪い状況を想像しても、雛森の表情は変わらない。いつものポーカーフェイスに戻って踵を返す。 (別にどうでもいい)  実らない努力が無駄なら、自分が今までしてきたことは全て『無駄』だ。  こうして南に振り回されることも『無駄』で、大沢に腹を立てることも『無駄』    南の一挙一動で動揺する自分に、名前を呼ばれなかったことを孤独だと感じてしまう弱さ。 突き詰めて考えると、雛森は自分自身が『無駄』という結論に至った。 もちろん定時で帰れない雛森は、就業時間が終わってもデスクから離れることはない。 今日が金曜だったとしても、プライベートの予定などないし、取り掛かるべき仕事は山ほどある。  けれど一向に作業は進まず、何かヒントを得ようと雛森はプレスルームへと向かうことにした。アヤならこの状況の打開策を思いつくかもしれない、そう思ったからだった。  一つ上のフロアへ向かうべく、エレベーターを待つ。背後から耳障りな声が聞こえた雛森は、咄嗟に近くにある階段の影に隠れた。 「南さん! 今日は残業ですか?」  それは大沢の声。 定時で帰ったはずの大沢は南を待っていたのだろう。嬉々として南へと話しかけている。

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