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第56話
「無理しちゃ駄目だよ」
ちゃんと睡眠を摂って食事もしてほしい。味のわからない自分の分まで何かを美味しく感じる幸せを実感してほしい。
そのどちらも言葉にせず、笑いかけた南に雛森は首を傾げる。
(喋らなければ可愛い黒猫なのになあ……まあ、刃向かってくるところが好きなんだけど)
含み笑いを落とした南は、今だけは嘘なく言葉を連ねる。
「辛くなったら、うちに来ればいい」
自分自身でも呆れるほど素直に出た言葉に、南は眉を垂れた。
大沢が名前を呼ぶ声が聞こえ、感付かれる前に張り付けた笑顔で応じる。すると、離れた所にいた雛森が動き出す気配がした。
足音を殺して階段を昇る先にあるのは、きっとプレスルームだろう。
手のひらを返したように雛森を無視し、大沢と行動を共にする自分を雛森はどう思っているのだろう。
昼に見た動揺したかのような雛森を思い出し、南は喉を鳴らす。少しだけ浮上した南の機嫌を損ねるのは、やはり大沢だった。
早く来いと催促する大沢の声は、南には雑音として聞こえる。
大沢が雛森を悪く言う度にその口を縫い付けてしまいたくなり、雛森の名前を呼ぶ度に汚れるから黙れと沈めたくなる。その気持ちを押し殺して南は大沢の隣を歩いた。
「じゃあ僕はここで」
まだ仕事があるから、と大沢と別れた南は自部署ではなくバイヤールームへと向かう。そして、無人の部屋の中で一番乱れたデスクへと近づいた。
あの華奢な身体で誰にも泣き言を言わず黙々と働く雛森を思うと南の気分は昂揚した。
もっと苦しんで悩んで、一杯になればいい。誰にも縋れないその手を自分にだけ向ければいい。
それが捻じ曲がった愛情だと理解しながらも、南はうっとりとした手つきで雛森の座っていた椅子を撫でた。
「英良ちゃんは嘘が下手すぎるね。泣きそうな顔、すごく可愛かったなあ……」
傷ついた雛森の表情を思い浮かべ、楽しげに肩を揺らした南は持ってきた差し入れを置く。ついでに少し机の上も片し、自分が来たことをアピールすることも忘れない。
それから勝手知ったる要領で雛森のパソコンを起動し、素早く指を動かす。始終微笑んでいた南は、最後に満足げに頷き部屋を出た。
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