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疑惑にシュガーレス(1)

 南聡介という男はコミュニケーション能力に長けており、社内外問わず交友関係が広く好感度も高い。求められるノルマ以上の成果を出し、その仕事の早さは一級品。よって彼は、名実ともに『優秀な男』である。  しかしその正体は狡猾で腹黒。他人を傷つけることを厭わず、笑顔で人を蹴落とす性悪だ。それを知っているのは、ごく一部の限られた数人……  たとえば――。 「雛森さん……顔が……」 「あ?」 「いえ、何でもないです。すみません」  本社ビルの五階にある一室。プレスルームに訪れた雛森を待っていたのは、目的の人物ではなく、その部下である佐久間翼だった。  翼が恐る恐る指摘した雛森の顔。それは汚れているわけでも、食べカスが付いているわけでもない。その顔つきが問題だったのである。  冷たさを携えながらも、パーツの整った美青年。それであることは変わらない。だがしかし、今はその整った風貌を感じさせないほどに、凶悪な表情を浮かべていた。 それを翼が指摘できるわけなどない。なぜなら、翼にとって雛森英良は『恐怖の対象』であるからだ。  雛森に一言何か指摘すれば、負けず劣らずの罵倒が返ってくる。よくそれで社会人として上手くやっていけるな……と、心配するほどの言葉の刃が降り注ぐことを、翼は何度も経験してきた。 「おいサル。うちの責任者はどうした?」  そして今、現在進行形でその経験値を積み重ねている。 「サッ……神上さんなら会議からまだ戻ってません」  サルと呼ばれた翼は不服そうに唇を尖らせるが、今さら何かを言い返す気にはならない。そもそも、雛森が翼を名前で呼んだことなど片手で数えても事足りるからだ。  一体いつになったら自分は人間として認識されるのだろうか。そんなことを考えながら、翼は自分の仕事に取り掛かる。秋に向けての立ち上げをどのように行うか、神上から出された課題を早く片付けなければいけなかった。  一向に浮かんでこない案に、少し離れた所から聞こえる舌打ち。雛森が落とすそれは次第に間隔が狭まり、音も大きくなっていく。 (神上さんっ、早く……!!早く帰って来て!!!!)  そんな翼の心の声が届いたのか、雛森の細い指先が机を叩くことをやめた。コツコツと鳴っていたその代わりに聞こえるのは、革靴が廊下を歩く足音だ。  一歩、また一歩と近づいてきたその音が、バイヤールームの扉の前で止まる。やっと待ち望んでいた人物が帰って来た……。今までになく神上を求めていた翼は、開いた扉の音とほぼ同時に勢いよく顔を上げた。  そして、固まる。  まるで時間が止まったかのように、息することさえ忘れて。 「英良ちゃん、英良ちゃんの大好きなダーリンが迎えに来てあげたよ」  満開の笑顔で現れたのは神上亜弥ではなく南聡介だった。おそらく今一番ここにいてはいけない男――それが現れてしまった。  花の舞うような明るい声で言った南とは正反対に、雛森の纏う空気が凍りつく。エアコンの設定温度を間違ってしまったのかと錯覚するほど、部屋が冷え切っていく。  全てを無視する雛森に、冷や汗を流し焦る翼。そんなものは一切関係なく、南はゆっくりと部屋の中に入ってきた。  雛森の座っている椅子を背後から囲うように、南が机へと両手をつく。相変わらず高そうなスーツの袖口からは、これまた高そうな腕時計が覗き、その文字盤が差し込んでくる西日でキラリと光った。  それよりも妖しい光を放つ南の目が、スッと細まる。 「英良ちゃん、あんまり可愛くない態度だと翼くんの目の前で犯すよ」  南の囁きを拾ってしまった翼は思った。  神上を始め、雛森や南と出会った時から自分の『平凡』な生活は失われていたのだと。いくら翼が平穏と安泰を求めたとしても、それは周囲によって無残にも壊されるのだと。  それならばもう、諦めて受け入れるしかない。何も口を出さず空気と化すから、この願いだけは叶えてほしい。 (せめて仕事だけはさせてください……。じゃないと俺が神上さんに犯される!!)  郷に入っては郷に従え。  すっかり『平凡』を失った翼の目の前で、絶対零度の美青年と狡知に長けた嘘つきが対峙する。  

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