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疑惑にシュガーレス(2)

 一体どれぐらいの時間が経ったのだろうか。それはほんの数分だが、翼にとっては数時間にも感じられるぐらいの苦痛の時間だった。  雛森は冷めた目で南を睨みつけているし、南は南で微笑みを絶やさず、けれど逃さないとばかりに雛森を見つめている。  もういっそ、自分から神上の元へ行ってしまった方が良いかもしれない。この状況を説明すれば、横暴な神上もおそらく理解してくれるはずだ。そう思った翼は、静かに席を立った。 僅かな音さえ立てずにノートパソコンを閉じ、必要な書類と共に小脇に抱えて動き始める。  前世は忍者だったのではないかと自画自賛するぐらい、気配を消し去る翼の目の前で、とうとう冷戦の均衡が崩れる。 「大体さ、あれぐらいのことで今さら怒る方がどうかしてるよね」  嘲笑混じりに南が口を開いた。その台詞に雛森は顔を能面から般若に変化させ、牙を剥く。 「あれぐらい……だと?ないのは節操ぐらいにしておいた方がいいんじゃないですかね、南部長補佐」 「失礼だね。僕にだって節操ぐらいあるよ。いつも不細工は抱けないって言ってるでしょ」 「その台詞が節操がないって言ってるんだよクズが。てめぇは顔と穴さえありゃ満足するんだろ」 「うーん……それはちょっと違うね。この年齢になるとクオリティも重視したいし」  言い合う二人の台詞は平行線を辿り、翼は眩暈がしそうだった。つい机に手をつき、順調だった忍び足を前に出すこともままならない。  なぜ会社でこんな会話が繰り広げられるのか。なぜ二人とも平然としているのか。そこに羞恥などはなく、露骨な言葉が行き交う。  黙っていればクールな美青年と爽やかな好青年なのに。宝の持ち腐れどころか、それを間違った方法で調理し、失敗して生ゴミとして捨てたような。とにかく『勿体ない』の一言に尽きる。  気力を削がれ、立ち尽くすしかない翼を置き去りに雛森と南はまだいがみ合っている。その理由はわからないけれど、翼は特に知りたいとも思えなかった。平凡な自分に非凡な人種の考えなど理解できるとは思えない。  ただ神上の帰りを待つか、二人がこの場を立ち去るか……絶対にあり得ないけれど、どちらかが折れてくれるのを待つか。遠い目をして二人を見守る翼は、全てを諦めた。  自分はプレスルームに置かれているマネキンの中の一つなのだと言い聞かせ、静かにその時を待つ。  すると先に動いたのは、またもや南だった。 「英良ちゃん、駄目だ。今すぐ帰ろう。英良ちゃんの冷たい視線を浴びて、身体が疼いてきた」  南の一言に翼の口から悲鳴が零れる。けれど、それを掻き消す罵声が飛ぶ。 「そういうところが節操がないって言ってんだよ、このドM野郎」 「嫌だな。僕がマゾじゃないってこと、英良ちゃんが一番知っているでしょ。昨日だって映画館で――」 「言うな!言ったらこの場で殴り殺す」 「英良ちゃんに殺されるなら本望だよ。でも、英良ちゃんの場合は殴り殺すじゃなくて絞め殺すだよね」  ふふ、と妖しい笑みを零した南の左頬に雛森の平手が打ちつけられる。それが肌を叩くと思った瞬間、翼の耳に入ってきたのは、飲みこんだ吐息の音だった。  翼の人より少し大きな瞳に映る光景。南が雛森の手首を掴み、反対の手で後頭部を支えている。 角度的に雛森の表情は見えないが、その姿勢、聞こえる音、自分の経験から二人がキスをしていることはわかった。 「ふっ……ん……っ、この、クソ……んんっ」  そして、聞こえてくる雛森の声が翼の予測を肯定する。

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