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始動1
中学、高校、大学と、陸上部に所属していた。
専門は長距離だった。果てしないとも言える長い距離を、黙々と走るのが好きだった。無駄のないフォームを追求し、一定のリズムで地を蹴り、息を弾ませ、時折、自身を巡る鼓動に耳を傾けながら、全身で風をきり、前へ前へと進んでいく。
地味で地道で、苦しい競技だ。けれども、走れば走るほど頭が冴えわたり、身体は軽くなり、疲労や苦しみを忘れ、意識と切り離されたかのように、おのずと脚が前進していく。その瞬間が訪れると、えも言えぬ高揚感に全身が支配され、走ることへの歓喜が生まれる。
そして、肉や肌を伝って響いてくる心臓の大きな鼓動に、那智 瑛汰という人間の生の躍動を感じ、満ち足りた気分に浸るのだった。
中学3年の時、地元は山梨県の大会で3000メートル走に出場し、優勝した。その後、全国大会では5位入賞を果たし、スポーツ推薦で東京の陸上強豪校に進学した。
高校時代は個人競技と並行して、駅伝にも参加した。2年生の時、全国高校駅伝で自校が3年ぶりに優勝したが、その際、ゴールテープを切ったのは瑛汰だった。
翌年には同大会で連覇を果たし、3区を疾走した瑛汰は区間新記録を樹立した。その成績が全国の大学駅伝部の関係者の目に留まり、両腕や両脚、首を綱引きのごとく引っ張られるかのようなスカウト合戦の末に、都内の駅伝名門校に進学することになった。
大学でも同様に、個人競技と駅伝の両方に力を入れ、インターカレッジと大学三大駅伝大会に4年間欠かさず出場することができた。
成績やコンディションを、大会に合わせて調整するのに長けていたのだと思う。けれども、いずれの大会でも優勝することはできず、大学生活最後の大会であった箱根駅伝では、1位と46秒差での2位に終わり、悔し涙に暮れる結果となった。
瑛汰としては、ここですっからかんになるまでに完全燃焼した。有難いことに、とある実業団からスカウトを受けていたが、それを断り、普通のサラリーマンになることを選んだ。陸上で飯を食おうなどという考えには、到底なれなかった。
そして、都内のインフラメーカーに就職し、広報部に配属されてからは、主に国内の展示会への出展に関する業務に従事するようになった。
繁忙期と閑散期の落差に数年の間は戸惑ったものの、今ではそんな日々にすっかり慣れ、後輩の指導や小規模の展示会の出展責任者として、社内外の人々との間に立って仕事をすることが増えていた。
人事の採用担当者なら、何百、何千と聞いてきた言葉だと思うが、学生時代に培った粘り強さを活かし、瑛汰は今日まで働いてきた。腹が立つことや負担に思うことなど、これまで何度となくあったが、負けず嫌いな性格もあって踏ん張ることができていた。今のところ、転職は考えていない。
そして、そんな社会人生活を送るようになってから、走ることをぴたりとやめてしまっていた。
もう何年、走っていないだろう。愛用していたランニングシューズは、引っ越しの際にどこかに行ってしまった上に、スポーツウェアも捨ててしまっていた。まずはそれらを揃えなければ。
ということで今夜、退勤後に向かったのが、駅ビル内にあるスポーツショップだった。
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