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 喉が痛い、お尻も痛い、声が出ない、動けない、疲れた、お腹減った、と文句ばかり言っていた葉璃が、聖南の肩口を指差して「そこだけはごめんなさい」と正座していた事を思い出す。  ── かわいかったなー。気付かなかったけど、我慢できねぇで噛んじまってたのか。  葉璃が声を押し殺している時は大概、自身の下唇や手の甲を噛んでいるので、聖南は何度も「俺を噛め」と言っているが聞いてくれない。  だが先日はとうとう我慢できなかったようで、あれから数日が経っているというのに微かに痕が残っていた。  今の今まで気付かなかったが、葉璃の痕跡が体にあったとは嬉しくないはずが無かった。 「セナさん、……そんなお顔も出来るんですね」  間近で麗々に言われてハッとした聖南は、現在撮影中だという事も忘れて葉璃の残像に思いを馳せてしまっていた。 「……もういいだろうから、キスシーンってやつ撮ってもらうからな。動くなよ、絶対」 「…………」  明らかな色欲を滲ませて見詰められた聖南は、やや眉を顰めて不快感を表した。  そして少しずつ麗々の方へ顔を寄せていく。唇が触れ合う寸前で止めて、数秒耐えればいい。  シャッター音が無数に響くスタジオ内でのこの数秒さえ耐えれば、今日の仕事が終わる。  今日はいくらか時間が早いので、終わったと同時にすぐさま葉璃に電話するのだ。  楽しい事を想像すると、何時間も嗅いでいるせいで鼻が曲がりそうなほどの女性用のキツイ香水の匂いも少しは和らぎ、モチベーションが上がるというもの。  しかし次の瞬間、上がったモチベーションは地に叩き落とされる。  目前に蘭々の顔があるので視線を斜め下に向けていたのが災いした。  聖南が離れようとした矢先、麗々がクッと踵を上げて聖南の唇へ自身の唇を押し付けてきたのである。 「……てめっ!」  ── この女……!!  聖南は一瞬で離れたものの、カメラはそのキスシーンをバッチリ押さえていたらしい。 「いただきましたー! お疲れ様でした!」  スタッフの号令でスタジオ内がバタバタと動き始めた。その時点では誰も、聖南の怒りに気付いていなかった。  動くなと念押ししたはずだ。  聖南の唇には麗々の口紅が移ってしまっているだろうが、それを手の甲で拭う事すらしたくない。 「セナさん、美味しかったですか?」  呆然と床を見やり、腹から湧き起こる苛立ちに拳を震わせて耐えていた聖南に、呑気に擦り寄ろうとしてくる女をジロリと睨む。  やはりこの手の女は自分に余程自信があるのか、聖南が怒って見詰めているのを、何を勘違いしているのか惚れたと受け止めているらしい。 「次のカップル撮影、断るからな」 「……え!? い、いきなりそんな……! どうしてですか!?」  聖南の言葉と怒気をはらんだ声色に、ようやく麗々の顔色が変わる。  おめでたい女だと思った。 「やるなっつった事やったからだ。お疲れ」  怒っている聖南を久々に見た成田が恐恐とティッシュ箱を差し出してきたので、五枚ほどを素早く取り出してゴシゴシと痛みが走るほど唇を拭った。  おかげで唇が乾燥し、何ヶ所か切れた。  いつもであれば誰よりも率先して「お疲れ様」ムードを作る聖南が、無言でその場を立ち去る。  控え室に戻るなり早々に着替え始めた聖南に、成田は恐る恐る声を掛ける。 「セナ、お疲れ……」 「おぅ、お疲れー。帰っぞ」 「でもこの後取材が……」 「それは後日な。一秒でも早くここから出たい。担当には俺から言ってやっから、成田さんは車よろしく」 「わ、分かった」  聖南は、仕事関係の人間にはあまり感じの悪い態度を見せたくなかった。  例のスキャンダル以前から聖南は女性にだらしがないと認知されていて、しかしそれでも仕事の姿勢と人気が比例していたので誰にも何も咎められる事は無かった。  今後も業界に居続け世話になるには抑えなくてはならなかったのだが、どうしても我慢できなかった。  この体は葉璃のもので、葉璃にしか触れたくないし、触れられたくない。  そんな聖南の体に土足で踏み込んできた麗々に相当頭にきていて、思わず手が出る一歩手前だった。

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