50❥ 瞳に涙をいっぱいに溜めた葉璃はスマホを両手で握って、社長には見えもしないのにペコペコと頭を下げている。 その様子を凝視していた聖南は、遡る事約十時間前の出来事を思い返していた。 突然飛び出して行った葉璃を少しだけ追い掛けた聖南は、数秒立つと冷静さを取り戻し社長室へと舞い戻った。 「なんだ、追い掛けないのか？」 「あの子俺より足速ぇからどうせ撒かれる。 行き先も大体分かるし」 先程と同じ場所に再度腰掛けた聖南は、お茶を一口飲んだ。 なかなか座ろうとしないので変だと思った矢先、まさかあんな事を言って走り去るとは思いもよらなかった。 家を出る前から「嫌だ、行きたくない」とごねてはいたが、聖南も一緒に行くのだから大丈夫だと言って落ち着かせた気でいたのだ。 そういえば車内で葉璃が妙な事を言っていた気がするが、あれはこういう事だったのかと納得した。 「…なるほどな。 ……おい、俺と葉璃の事もう分かってんだろ？ それで呼び出したのか？」 「あぁもちろん。 昨日葉璃君がお前の父親に怒っていたが、ただの事務所の後輩があそこまで啖呵を切るはずがないと踏んだ。 ……そうなんだろう？」 固定電話から内線を繋ぎ、秘書に「お茶のおかわりを」と言った社長は聖南をチラと見た。 「そうだよ、俺と葉璃は付き合ってる。 トータルもう八ヶ月くらいなる」 「そんなに長くか！ 一時のお遊びかと思ったが……」 「俺がここまで仕事に前向きになれてんの、葉璃のおかげなんだよ。 その葉璃が、社長に呼び出されてまぁ見事にビビって逃げちまったじゃねぇか。 どうしてくれんの」 聖南は腕を組んでそのままの流れで腕時計を見ると、まもなく午後の仕事へ向かわなければならない時間だった。 葉璃が飛び出して行ってしまったけれど、この時、動揺もしないで冷静でいられたのは葉璃の気持ちが手に取るように分かったからだ。 きっと葉璃は、怖くなったのだろう。 愛し合っているのが周囲や世間にバレたら、聖南のマイナスになるだろう、だから聖南とは関係ないフリを通して離れよう、と。 なぜ相手が聖南なのか、と責められてしまうとも思ったかもしれない。 ここを出なければならない時間が迫る中、社長に物申さないと気が済まないとの思いから聖南は立ち上がり、社長のデスクに寄りかかった。 「だが葉璃君は、セナとは関係ないと今しがた言っていたが？」 「あんなの嘘に決まってんだろ。 俺との事がバレたらマズイ相手にバレたんだ。 ビビるだろ、そりゃ。 まだなんも知らねぇ高校生だぞ」 「……セナ、本気なのか？ その…セナは女性が好きなんだろう？ 今まで散々…」 「あーはいはい、言いたい事は分かってんよ。 ……俺がケガして謹慎するってなった時、心に決めた人がいるって言っただろ。 それが葉璃」 「………そうだったのか…」 これまでの聖南を知る社長は少なからず衝撃を受けているようだが、やはり以前にも感じていたように、この社長は聖南と葉璃の関係を確信に変えても否定などしてこない。 とにかく、聖南の相手があんなに幼く、しかも男性だという事にただただ驚いているだけのように見えた。 「俺もう出なきゃなんねぇんだけど、マジで葉璃との関係がどうにかなったら社長恨むからな」 「………私は君達を応援すると言いたかったんだが」 「それでもだよ！ 葉璃はあぁ見えてめちゃくちゃ頑固だ。 昨日社長達の前であんだけブチ切れるだけの根性あんのに、超が付く根暗でネガティブだから俺と別れるって言い出したら聞かねぇかもしんない！ もしそんな事になったら俺事務所辞めっからな！ 仕事も世間もいらねぇ、葉璃さえ居れば！ 葉璃が悩むくらいなら、俺らの事公表してから引退してもいいとすら思ってる！」 まくし立てた聖南は「…仕事行ってくる」とだけ告げて、呆気にとられた社長を残して勇んで出て行った。 お茶を運んできた秘書とぶつかりそうになったが寸での所で交わし、歩みながらサングラスを掛ける。 心配だが、葉璃に連絡しようとは思わなかった。 もう何度目かも分からない葉璃の逃亡劇の時は、誰からの連絡もこないように確実にスマホの電源を落としていると知っているからだ。