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【別れ話】
いつかその日がくるかもしれない。
今はどんなにお互いを好きでいても、その想いが永遠に続くかどうかなど誰にも分からないからだ。
しかし、聖南は一生、葉璃の事しか愛せない。
聖南に限って "いつか" はやって来ないという、絶対的な自信と自負があった。
必然的に出会って暗闇から這い上がってきたのは、葉璃だけでなく聖南も同様だ。
互いの前進のキッカケも経緯もハッキリしているのだから、どちらかが欠けると途端にバランスを失う。
そのため、何があっても聖南と葉璃は二度と離れてはいけないのである。
果たしてそれは聖南のみの驕りだったのか。
目の前で葉璃がポロポロと涙を流している。
だが聖南は、いつものように優しく抱き締めてやる事が出来ずにいた。
なぜなら、───。
「……今、なんて言った?」
「………………」
「なぁ、なんて言ったんだよ。 聞こえなかった。 いや俺には理解出来ない言語だったとか?」
「……聖南、さん……っ、ごめ、ごめんなさい……っ」
「………………」
葉璃が泣いている。
何度言っても、ベージュ色のスプリングコートを頑なに脱がない。
部屋の中でコートを着たままだと、汗をかいて風邪を引く。 病気などになってほしくないから、という理由まで付け加えて脱ぐよう諭した。
けれど葉璃は、帰宅して間もないにも関わらず今にも駆け出して玄関へと向かう勢いだ。
すでに聖南から何歩も後退り、今しがた発せられた台詞は覆さないと態度にまで出している。
「意味が分かんねぇ。 冗談だろ?」
「ち、違う……っ、冗談なんかじゃ……」
「じゃあ何? 俺、その台詞とは一生縁がないと思ってたんだけど」
「………………っっ」
この姿を見れば、誰だって冗談ではない事くらい分かる。
葉璃がそんな質の悪い冗談を言うような子ではない事も、これだけ涙を流す演技など出来ないだろう事も、分かっている。
ただ、信じたくなかった。
聞きたくなかった。
「聖南さん……っ……ごめん、なさい……っ、そんなに怒るとは、思わなくて……」
「は? 怒ってるっつーか意味が分かんねぇって困惑してるだけ」
「も、もう……無理、……です……俺には……っ」
「何が無理なんだよ。 なぁ、何が無理って? 二年も三年も付き合ってて、今さら何が無理だっつーの。 いいとこも悪いとこも受け入れて一生一緒に居るって決めたんじゃねぇの?」
「あの……、あの……っ」
葉璃はジリジリと聖南が近付いた分、後退る。
その意味を理解するなど到底無理である聖南は、葉璃を捕らえたら最後、何をするか分からない。
猛烈な怒りと、突き付けられた言葉によるこれからの孤独に恐怖し、頭と腹の中がグツグツと煮え滾っていた。
今朝まで何も変わった様子は無かった。
一足先にマンションに帰っていた葉璃を追い、二十分遅れで帰宅した聖南はリビングへと入るなり突然別れを告げられたのだ。
頭から大量の冷水を浴びせられたような衝撃が、嫌でも脳ミソを震わせた。
葉璃が今身に着けているスプリングコートは、聖南がスタイリストから買い上げたもの。
デザインが聖南好みで機能性もあり、オフホワイトに近い淡いベージュが葉璃っぽい。 「よく似合ってるよ」と微笑み合ったのはつい昨日の事だ。
しかし数分前。
「お疲れ♡今日もかわい♡」と葉璃を抱き締めようとした聖南に向かって、緊張の面持ちで愛しの恋人はこう言った。
『聖南さん、わか……たいです』
声が小さく、おまけに俯いていたので聞き取りにくかったが、語頭と語尾だけで言いたい事は伝わった。
このただならぬ雰囲気が信憑性を増し増しにし、聖南の体内を巡る血液が数秒に渡って循環を止めた。
ここで冒頭に戻る。
何故いきなり別れを告げられなくてはならないのか、さっぱり意味が分からない。
葉璃だけを愛し、可愛がり、想いを全身で伝え、尽していたつもりだった。
葉璃が心変わりしないよう、カッコよく居続ける努力も怠っていなかった。 ……はず。
二人の特殊な関係上、喧嘩にもなりようがないので一度もそれらしい台詞が出た事は無かった。
とにかく別れ話をするにはいきなり過ぎたのだ。
「…………来いよ」
「え……、なに、……っ?」
「いいから来い」
「い、嫌っ……こわい! 聖南さん……っ」
「葉璃のせいだろ」
「そんな……っ」
リビングを逃げ惑う葉璃を大股で追い掛けた聖南は、細い腕を掴んでベッドルームに引きずり込んだ。
どれだけ葉璃が拒もうとも、嫌だと叫ぼうとも、聖南から離れようとするのならば繋ぎ止めなくてはならない。
このとき聖南の表情筋は、死んでいた。
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