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『ねぇ、おにぃさまでしょ……?』 甲高い、幼い声が聞こえる。 (誰だ、これは…………) 〝おにいさま〟 (待て、兄……だと?) 俺が家を出たのは、いつだ? 俺が中学上がってすぐ…もう3年も前の事だ。 あの時の妹は…まだ赤ん坊で、ベッドで眠ってて……… 『ねーぇ、おにぃさまっ!』 「っ、あぁ」 強く呼ばれて、思わず返事をしてしまった。 『わぁっ!やっぱりおにぃさまだわっ!!おにぃさま!』 キャッキャッと嬉しそうに飛び跳ねてるのが分かる。 『ねぇおにぃさま!もっとおはなししてっ!おこえききたい!!』 「ぁ、あぁ……っ」 (何だ…これは……) 今起こっていることがよく分からずに、呆然としてしまう。 どうなってんだ…? 何でこいつは、俺の事を〝兄〟と呼んでいる……? 『おにぃさま? もーおいそがしいのっ? あのねっ、きょうわたしね、あの…~~〜、~~!』 「…………?」 また受話器の向こう側でガサガサ音が聞こえ始めた。 『まだわたしがおはなししてるのっ!』という声が聞こえる。 やがてーー 『ぉにーしゃまっ?』 「っ、」 さっきの声とは別の、今度はやや覚束ないような声が、俺を〝兄〟と呼んだ。 『ちがうわよ、おにぃさまでしょっ!ほらもういっかい!』 『ぉ、おにぃしゃま……』 『そう、おにぃさま!』 (待て、) 受話器の向こうで、甲高い声が2つ。 これは……一体、誰だ? 片方は、妹だ。 じゃあ…もう片方は………? (っ、ま、さか) 〝医者を…医者を呼ぶんだ、ヒデト!〟 〝うるっせぇよ!俺はっ、もうお前らなんかどうでもいいんだ!!〟 まさか、あの時母さんの腹の中にいたーーーー 「お、とうと……なのか………?」 『!! ぅん!おにぃしゃまっ!』 〝弟〟 俺が、あの時酷い事を言って苦しめてしまった…弟。 それなのに、顔も知らないこいつは……俺の事を〝兄〟と呼ぶ。 「ーーっ、」 自分の中からよくわらない感情が溢れてきて、訳が分からない。 (なんだ……これ…………っ) 胸の奥からじんわり暖かいものが広がって、どうしようもなくて。 「………っ、」 声を出そうにも、嗚咽が漏れて上手く声が出せない。 視界が歪んできて、慌てて目をキツく閉じて耐える。 『おにぃさまはね!せーぎのみかたなのよ!』 『そう!せーぎのみかたっ!!』 「…………?」 3歳と2歳の、よくわからない会話が聞こえる。 『おにぃさまのまっかなかみはね、あかれんじゃーのいろなの!』 (……赤レンジャー?) 幼い頃誰もがハマる、あの戦隊モノか? 『おかあさまやおとうさまが、おしえてくれるの! 〝おにぃさまは、あくをやっつけるのがいそがしいから、おうちにかえってこないのよ〟って!』 あの家が俺の事を監視してるのは知っていた。 まさか、それをこいつらに話してるのは知らなかったが。 『ねーおにぃしゃま!てきつよいっ!?』 『いまどこにいるのっ!?わたしもおてつだいしたい!』 (いやいや、意味わかんねぇよ) あいつらどんな話し方してんだ。 『わたしも!おおきくなったらおにぃさまみたいに、 〝だれかをたすけるせいぎのみかた〟になりたい!』 『ぼくも!!』 「ーーっ、」 (俺は、そんなに慕われる人間じゃない) 酷い事をして家を出た。 泣き止まない妹を放置して、弟を痛めつけて。 苦しそうな母親と叫ぶ父親を全部無視して…家を出た。 それなのに、なんでそう…こいつらは……… 『…~~?ーー~~~』 『あ!あのね、~~~………!』 また、ガサガサと音がし始める。 『ーーヒデト……?』 「っ、」 『ヒデト、ヒデトなのね?』 次に聞こえてきたのは、懐かしい声。 もう随分昔から俺の名前を呼んでくれなくなってた…あの声。 「…………っ、母、さん」 『っ!ヒデト……』 電話口で、泣いてるような音が聞こえる。 何かを言わなきゃいけないだろうけど、久し振りに聞く声に頭が震えて、なにも出てこなくて。 『ねぇ、ヒデト』 「………なんだよ」 『たまにはっ、帰ってらっしゃい? お母さん、美味しいもの作って待ってるわっ』 「ーーーーっ!」 なんで、 なんで…んなこと言うんだよ。 俺は、母さんにあんな酷いことをしたのに。 それなのに…どうして……… (っ、くそ……!) 堰き止めてたものが、溢れてきてどうしようもない。 目の前がぼやけ始めることが、もう…止められなくて…… ガサリと、また向こうで人が変わる音がした。 『ヒデト』 「っ、」 『すまなかった』 ポツリと言われた、その言葉。 『子どもなんてこれまで出来たことがなかったから、小学生の君にどう接していいか分からず、だんだん冷たく当たってしまっていた』 『本当に申し訳ない事をした』と謝る声に、呆然とする。 「っ、んなの、俺だってーー」 たくさん たくさん、言わなきゃいけない事がある。 謝らなきゃいけない事がある。 あんたや母さん、妹、弟…みんなに。 『一度帰ってこないか、ヒデト。積もる話は互いにあるだろう』 『母さんやこの子たちもみんな待ってる。迎えを出そう、いつがいい?』と誘ってくれる声に、何とか「明日」と返事をした。 そのまま、学校帰りに校門まで車を出してくれる約束をして、電話が切れる。 「~~~~っ、」 抑えていた嗚咽が、漏れた。 「っ、ぅ…くっ、……っ、くそ」 (この歳になってこんな外見の奴が泣くなんて、やばすぎだろ) でも、涙はどんどん溢れてきて、止まる事を知らなくて。 (なぁ、〝アキ〟) 俺さ、やっぱお前にはかけがえのないものをたくさん貰ったよ。 本当に…もう感謝してもしきれないくらいに、たくさん。 ーーだから、 「っ、待ってろ」 今度は、俺が…… ーーーーお前を、救う。 *** 番外編【〝佐古〟ヒデト】を読んでいただけますと、よりこのページがわかると思います。 お手数ですがよろしければ遡ってみてください。

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