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第5話 西日が差し込むこの部屋は
「うわ、本当に乾かない」
脇の下んとこ、マジでそこが湿ってる。うーん。もっと早めに干すべきなのか、それとも干し方がいけないのか。
久瀬さんの部屋は完全西向き。だから、家賃安いんだってさ。俺は、ふーん、って思った程度だったけど、色々デメリットはやっぱり家賃がお安い分だけのことはあるらしい。
夏は西日がちょうどガンガン差し込んで暑く、冬は日陰が長いせいで寒く、そして、洗濯物は劇的に乾きにくい。
どうしたらパリッと乾いてくれるのだろうかと唸っていたら、部屋で執筆中だった久瀬さんが喉奥だけで笑ってた。
「だから、西日はそういうもんだって言っただろ? つうか、いいよ、そのまんまで」
「けど」
「セレブ、洗濯物の干し方に悩むってか?」
セレブじゃないですってば。そう否定するとまた笑ってた。笑ってずれたメガネを骨っぽい長い指で持ち上げる。あの長い指はまるで小説を書くためのものみたいに思えた。長くてさ、タブレットのキーを叩く指先は早くて、まるで踊ってるように華麗に見える。その長い指を止めて、メガネを直す仕草ひとつに、見とれるんだ。
あの指が、恋の物語を紡ぎ出すって思うと、目が――。
「どうかした?」
「!」
「じっとこっち見てるから」
「ご、ごめんっ」
引く、だろ。男にじっと指先見つめられたら、普通、ドン引く。それでなくても、この特殊設定なんだから。
「そういうとこ、本物の猫みたいだな」
「……え?」
「猫、ってさ、よくじっと見つめるんだよ。興味のあるものをじっと見つめる」
執筆の時だけ、メガネをかける。その他の時は、メガネをしないから、久瀬さんがあのブラウンの細い縁のメガネを手に取るところを、俺はいつも横目でちらちら伺ってしまう。
それはまるで神聖な儀式みたいで、男相手に使うもんじゃないかもしんないけど、美しいと思った。
「そのくせ、こっちが見ると、スッと目をそらす」
「!」
「ほら、今みたいに」
その久瀬さんがメガネを置いて、顔を上げながら、こっちへ視線を向けるのが、すごいスローモーションで見えたんだ。
久瀬さんは執筆の手が止まってしまったのか、休憩なのか、大きく背中を反らすと、はぁ、って全部吐き出すように深呼吸をした。
だから、見すぎなんだって、思うけど、けど、見ちゃうんだ。俺にとって、この人はさ。
「クロ」
「は、はいっ、!」
「ホント、猫みたいだわ」
この人は俺にとってすごく特別っていうかさ。それに、俺の。
「喉、鳴らすかと思ったけど」
俺の飼い主だから。
「さすがにそれはないわな」
顎、っていうか、喉のところ、くすぐられた。
あの長い指でくしゅくしゅってくすぐられて、俺は、特別なあの指に撫でられたことに放心してしまう。
ぽかんってしながら、喉のところに残るこの人の指先の感触を追っかけてた。
その様子がおかしかったのか、俺を見ながら笑って、コーヒーを淹れにキッチンへと向かう。背が高いから一番上の棚だって容易に手が届くその人は自分用の白の質素なマグと、それと猫の瞳がプリントされたクロ用マグを並べた。
「クロ」
「……」
「砂糖、いくつ?」
「あ、えっと、大丈夫です」
「いらなかった?」
「いえ」
心臓が、慌ててる。
五感が、忙しくおっかけまわしてる。少し、ごつごつしてた。爪が皮膚をちょっとだけ削るように触れるのは、かすかにくすぐったかった。身を捩るほどじゃない。けど、じんわり感触が残ってる。
この人の指は、こんな触り心地。
「俺、家政婦でもあるから」
「あぁ、なるほど」
「えっと」
「俺、ブラックでいいよ」
今、一番上の高い棚からコーヒーを出す、あんたのその長い指の感触を身体が慌しく追いかけてた。
海外って感じのパッケージの缶は男サイズの手でぎりぎり片手で持てるほど大きい。蓋がビニールゴム製になっていて繰り返し使うこともできる缶。その蓋を開けると、ふわり、どころじゃない、少し苦味のあるコーヒーの香りに包まれた。
ほらって、それを家政婦の黒猫に手渡して、指が、右へ、左へ、何かを探すように行ったりきたり、と思ったら上を指す。そんで――。
「!」
その指がいきなり視界、目のぎりぎりのところに突き立てられて、マジでびっくりした。
「っぷ、本当に猫みたいに指先を目で追っかけてたぞ」
「! こ、これはっ」
「はい。俺、コーヒー濃いめね」
長い指がひらひらと、空で揺れて、久瀬さんは執筆へと戻った。
ほら、また神聖な儀式みたいにメガネをかけて、ゆっくり、その目を閉じて、開いて。きっとあれはスイッチなんだ。あの人が作家になる瞬間。
あの瞬間を見た人はどのくらいいるんだろう。
先代の黒猫以外に、誰が見たんだろう。あの目が、あの指が、作家のそれに切り替わるところをどんな人が見たことがあるんだろう。
「なぁ」
「は、はい!」
「今日の夕飯さぁ」
「……」
やば。びっくりして、コーヒー豆ちょっとこぼした。あ、拭いたら、今度は布巾がコーヒー色になっちゃった。
「今日鍋にしようか」
「あ、うん。はい。鍋……」
「味噌鍋。坦々鍋」
「たんたん」
沁みにならないよね。すぐゆすいだし。久瀬さんはブラックだっけ。俺は砂糖入れてみようかな。
普段、砂糖、あんま摂らないようにしてたから、コーヒー飲むのになんて使わなかったけど、もう、そんな気にしなくていいし。
「やっぱ、あごだし鍋にしよう」
「あごだし……」
「猫のお前は魚味のほうが喜ぶだろ?」
「うん」
砂糖、どんくらい? わかんねぇけど、こんくらい?
「ぁ、久瀬さん、コーヒーです」
「おーサンキュー」
邪魔にならないように、ソファのところに座ろう。ここだとこの人の邪魔にならずに、けど、いくら見てても笑われないからさ。
あごだし鍋、ね。そしたら、スーパーに行かないとだ。ぁ、そんでスーパーに行くんだったら――。
「! あっつ、甘っ!」
「っ、アハハハハハ、な、なぁ、クロ」
「……」
え、なんで急に大爆笑?
「お前、ホント、見てて飽きないわ」
え、だから、なんで? 何が?
「っぷくくく」
なんで笑われてんの? 俺。
「はぁ、ホント……」
「……久」
「お前って……」
執筆途中なのか、メガネをしたままの久瀬さんがこっちへ振り返って、手を伸ばす。俺の顎っていうか喉っていうかをくしゅくしゅって、また、手で撫でて、そして、笑った。
ちょうど差し込んできた西日に眩しそうに目を細めて、笑いながら、長い髪をかき上げて、俺はそんなこの人を見ながら、思ったんだ。
なんて、色っぽい人なんだろうって。
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