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第6話 猫はブイブイ言わせてた

 風呂掃除の仕方が上手になった。料理は昨日、初めてオムレツの奥深さを実感した。ホテルで出てくるような、トロトロふわふわなオムレツはまだ作れそうにない。  久瀬さんは日中よく執筆している。書斎とかじゃなくて、ワンルームの真ん中、小さなテーブルがあって、そこにタブレットを置いて、胡坐をかきながら書いてる。俺はそんな久瀬さんの邪魔にならないように家事をしてみたり、執筆する背中を見ていようと、背後にあるソファーに座ってコーヒーを飲んでみたり。  昨日もそんなふうに大きな背中を見つめてたら、笑われた。  本当に猫みたいに足音とかしないなって。そして、あの人の笑った顔に何かがふわりと浮き上がる。  俺が、久瀬さんに拾ってもらってから五日経った。  つまり、俺があの家に帰らなくなって五日が過ぎたことになる。捜索願いなんてことは、何があってもしないと思うし、オリンピック選考から零れたことは主治医から連絡がいくだろう。そうなれば、もう用はないだろうから、あとはお好きにどーぞってわけ。  笑っちゃうけどさ。  今、あそこの家の人間でよかったって、初めて思ったよ。要らない人間には固執しないでいてくれることに。  あぁ、でも、そろそろ、追い出される、かな。  ――何か、思い出したか?  そう、今日はまだ訊かれなかった。いや、昨日も、一回も訊かれてないかもしれない。嘘ついてるってバレた? それとも、記憶が戻らないんじゃないだろうかって、だったら早く出てってくれって、思ってる? 「おーい、クロ」 「! は、はいっ」 「あぁ、ここにいたのか。後ろにいると思ったのに、いないから」 「あ、うん」  キッチンで夕飯の用意をしようかなって思ったところだった。調味料がなくなりかけてて、ストックがどこかにあるかか探してたんだ。探しながら、このまま本当に家政婦にでもなれたいいのにって、思った。 「……なぁ、クロ」  ねぇ、俺。 「……散歩、いこっか」 「……え?」 「ちょっと、そこまで」  なぁ、クロ……お前、本当に記憶喪失? そう言われるのかと思った俺はやたらと身構えてて、散歩、ってだけなのに、きっとものすごく嬉しそうな顔をしてしまったんだ。あんたは俺を見て、目を丸くして、そして笑った。笑って、猫を可愛がるように俺の顎のところをくすぐってくれた。  まだ、ここにいられそうで、よかった。  でも、さすがに作家でも、同居人一人分が追加されるとさ、困るだろ? 仕事、したいって言ったら、ダメかな。むしろそのほうが追い出されるかもしれない?  え? 長居するつもりかよって、慌てられる?  けど本物の猫じゃないから、金、かかってしまう。っていうか、仕事とかできんのかな。身分証全部捨てたし。履歴書とかさ、書くにしたって。 「お前、姿勢いいなぁ」 「……ぇ? そ、ですか?」 「あぁ。背筋、すげぇ真っ直ぐなのな」  姿勢、ちゃんとしてないとクライミングに影響するから。背中や肩の筋肉にしてもすごい気をつけて、って、そっか、五日経ったってことは、俺がもうトレーニングをやめて五日経つんだ。  そ、っか……五日、経っても、別に、なんだか普通なんだな。競技に戻りたいってあんま思わないもんなんだ。遠征とかで丸一日以上トレーニングしないと、置いてかれる気がしてそわそわしてたのに。  そっか、こんなもん、なんだ。 「モテただろうな」 「え?」 「お前」  俺? 「女にさ」 「……」  モテる基準はわからないけど、彼女ならいたよ。 「って、覚えてないよな」  いたけど、あんま……だった。なんか、よくわかんなかった。 「すげぇブイブイ言わせてたりして」 「ブイ……?」 「うわぁ、なにそれ。記憶がないから通じないってこと? それとも、そんな親父言葉は死語すぎてわかんねぇってこと?」  どっちと答えたら、記憶喪失っぽいんだ? 返答に困るよ。  そんな困り顔の俺を見て、久瀬さんが笑った。この人は、けっこう良く笑うらしい。頻繁に見かける。そして、子どもっぽいところがある。目が合うと、俺がすぐに逸らすってわかってて、じっと見てきたり。猫ってことで飼われてる俺を、本物の猫のように撫でてみたり。その度に今みたいに困ってると、この人は笑っている。 「どっかで、待ってるかもよ?」 「……」 「お前の帰りを、さ」  また、困らせようとしてるんだ。頬を撫でて、じっと見つめて、俺が返答に、リアクションに、とにかく困り果てて目を逸らすのを待ってるんでしょ?  でも、あんたはわかってない。猫っていう生き物は案外気まぐれなんだ。見つめる度に同じリアクションするなんてわからないだろ? 「にゃ、にゃー……ぁ、ぁ」 「……」 「にゃ……」  けど、これは失敗だった。 「…………す、すんません」 「っぷ」 「ちょっ! 笑わなくたって」  夕方、五時ちょっと前、もう冬の空気に変わってきたせいか、日が傾きかけるこの時間になるとグンと冷え込んでくる。そして冷えて冴えた夜になりかけの空気の中を駆け抜けるように響く久瀬さんの大きな笑い声。  その爆笑に、結局、俺はやっぱりうろたえて、真っ赤になるんだ。 「だ、だって、お前、にゅあー、なんていうから」 「……もう言いませんよ。キモいこと言いました」 「キモかねぇよ」  男の、しかも、こんなアスリート体系の奴が真似た猫の鳴き声なんて、鳥肌モンだった。  やんなきゃよかった。ちょっと、浮かれてたんだ。あんたがまだ俺を置いてくれそうな感じがしたから。  けど、今ので逆に追い出されたりして。 「ほれ」 「……」 「うちの黒猫は恥ずかしがり屋だからな」  そういって、久瀬さんが俺の顎を触った。外は寒くて、空気は冴えて冷たくて、あんたの長い指を冷たくさせてしまう。氷とまではいかないけれど、その指はたしかにひんやりとしてた。  大事な指なのに。 「クロ」 「…………」  小説を書くための長い指は、どんな指よりも価値のあるものなのに。 「クロ? ほれほれ」 「……にゃ、にゃ、ぁ」  久瀬さんは男の俺なんかの猫撫で声でも、おかしくて満足だったのか、また笑ってくれた。 「お前、年上にも可愛がられそうだぜ? 可愛い僕ちゃんっつって」  笑って、そんなこと言いながら、寒そうに肩を竦めて、かじかんでしまった指先をチャコールグレーのコートのポケットに突っ込んだ。

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