物は充分すぎるほど与えてもらえる家だった。なんでも、欲しいものは頼むと数日のうちに部屋に置かれていた。 　それはとてもうらやましいことのように思えたけれど、違うんだと悟ったのはいつだっただろう。ただ与えられるだけでは、どんなに物が溢れようが楽しくも嬉しくもないのだと知ってから、何かを欲しいと思ったことはなかった。 「うーん……」 　なのに、今、とても欲しいものがある。 　あの人の指は特別なものなんだから、冷やしたらいけないだろ。だから手袋を。 「うー……」 　犬みたいに唸りながら、ガラスケースの向こうを見つめる。 　これなら、あの時のスウェットセットいらなかった。あとマグも。そしたら……いや、合わせても無理だったかも。 　安いのじゃダメだろ。作家の指を守るための手袋が安い千円にも満たないヤツじゃさ。 「うーん」 　俺がやだ。 　やだって言っても金がない。金がないけど身分証もない。日払いのだって、そういうのいるだろ？　口座とかももう使えないし。そもそも、何度か取材とかテレビインタビューとか受けたことがあるから、極々稀に顔を知ってる人もいるかもしれないから、あんまり外は出歩きたくない。久瀬さんはほとんどテレビを見ないから、俺のことは知らなかったけど、そんな人ばっかりじゃないかもしれない。 「何か、お探しですか？」 「！　あ、いえ」 　あまりにへばりついて見すぎてた。店員が声をかけてきて、俺は、慌ててその場を離れた。 　今日、久瀬さんは出版社に行くって言ってたから、帰りが遅い。だから時間とか気にしないで、ついブラついてしまった。 　夕飯は先に済ませてくれって言われたけど。ラーメンとか、帰ってきてから食べたくなるかもって、長葱だけ買いに。 　そしたら、ショッピングモールにはちょうど手ごろな手袋があるかもしれないって思った。だけど。 　生まれて初めて欲しいものができたと思ったら、その欲しいものは手に入れられなさそうだ、なんてさ。 　上手に物事っていうのは進まないようにできてるんだろう。冬が本格的になる前に、俺が、ここにいられるうちに、あの人に手袋をプレゼントしたいのに。あの人の指の価値に見合った手袋は、今の俺には高くて買えないなんて。 　出版社での打ち合わせってそう時間かかるもんだっけ？　出版社勤めの兄だって、すでに帰ってきてた時間だし。じゃあ、どっか寄ってるのかな。 　夜の十一時過ぎ。 　飲んでる、とかなんだろ。 　俺を拾ってくれた晩も飲んでたっぽいし。じゃあ、今夜は遅いかな。 「……」 　久しぶりの、ひとりだ。 　前はずっと一人だったし、そのほうが気楽でよかったのに、今はひとりでいることをもてあます。俺の部屋は牢屋みたいに感じられたけれど、それでも、そこが一番マシな場所だった。兄も誰もいない、あそこだけが。 「久瀬さん……」 　まだ、かな。 　なぁ、先代のクロもこんなふうにあの人のこと待ってた？　棚の上に飾られた丸顔の、金色の目を見開いて、眩しいのか黒目を縦長にしているクロは何をして待ってたんだろう。ソファに丸まって？　それとも布団？　布団だったら。 「……」 　久瀬さんが使ってるベッド。そこだけは俺は、触れたことがない場所だ。先代のクロは？　ここで陣取って寝てたことある？　他のどの場所も俺は触れて入ったことがあるよ。トイレも洗面所もキッチンも。どこに何があるのかも全部知ってる。ここ以外は――。 「……」 　ここだけ、知らない。 「……」 　久瀬さんの寝てるベッドだけ。あの人の寝床だけ。 「……」 　――ドンッ！ 　その時だった。いきなり玄関扉に何が衝突するような音がして、心臓が止まるかと思った。 「ちょっとおおお、鍵、どこなのよ」 「うーん」 　そして、ぎゃんぎゃんと騒がしい女の人の声と、唸る男の声。 「もう、成ってばぁ」 「うーん、ケツのポケットんとこ」 「もう、変なとこまさぐらせる気でしょ」 「ちげぇよ。早く出せ、って、ああああ、ちょっ」 　ガタガタ、ゴトゴト、ご近所迷惑レベルでうるさい扉の向こう側。 「やっぱ、いい！　ここで」 「やだぁ、開けちゃったも……ぁ？」 　なんか、手間取ってそうだったし、俺が扉を開けたほうがいいのかなって、手を差し伸べたところで開いた扉。 「え？」 　その扉を開けたら、綺麗だけどちょっとケバケバしい女の人と、その女の人に、しなだれかかって、思いきり抱きついてる久瀬さんがいた。 　外の冷たい空気と一緒に雪崩のように進入してくるアルコールの匂い。それに混ざって、やたらと鼻につく甘い甘い香水。 「え？　何、この可愛いイケメン」 　この匂い、知ってる。 「やだぁ、超可愛い！」 「おい、お前、いいから帰れよ」 「え、ちょっとやだやだ。私送ってあげたんだけど！」 「うん。ありがとー。助かったー」 「ちょっ」 　俺を拾ってくれた時もこの匂いがしてた。やたらと甘くて、鼻の奥にねっとりと残る感じがしてて。 「……はぁ」 「……おかえりなさい」 「あ、あぁ、ただいま」 　今、すごく嫌な匂いだと思った。 　甘くて、濃くて、もう、 この中にはいないのに、まるでいるかのように香ってる。 「飲んで来たんだ……」 「あぁ……」 　なんか、邪魔だ。この匂い。 　ほら、また匂う。久瀬さんが歩くと、その後をくっついているみたいに甘いのが鼻を刺激して、胃のとこがムカムカする。 「何か、食べる？」 「んー」 「ラーメンならすぐ作れるよ？　生麺のやつ買ってあるんだ。作っておくから風呂入っちゃえば？」 　久瀬さんは遠慮してるのか、自分でやるからって言ってくれたけど、俺が嫌なんだ。早くその甘いやつ流してきなよ。部屋に匂いが沁み込みしそうじゃん。だから、ほら、早く、風呂へ。 　押し込めるように、久瀬さんを風呂場へ向かわせてから、少しでも早く、この甘いのが外に出るようにって、換気扇を強にした。 「なぁ、クロ」 「？」 「ラーメン、ありがとな」 　今、久瀬さんから香るのはこの前特売でそれぞれで買えば四つ買えるじゃんって笑いながら、レジに並んで買った、ウィンターパールの香り。どこがウィンターでパールなのかはわからないけど、その香りがしてる。 「すげぇ、美味かった」 　それと、今さっき俺が作った塩ラーメンの良い匂い。 「あ、うん」 「っつうか、お前も食いたかった？」 「へ？　いや、全然、さっき食ったしっ」 「っぷ、強がっちゃってぇ。食いたそうにじっとこっち見てただろ？」 「！」 　見てた？　食べたそうに？ 「ごちそーさん！　あんがとな。ぁ、食器は洗うから、お前は座ってろ」 　見てたのは、あんただよ。嬉しそうにラーメンを食べるあんたを見てた。あんたから、あの甘い匂いがしないのが嬉しいって思いながら、ただ、ぼんやりといつもどおりみてた。 　ねぇ、俺、たぶん、ラーメンは、あんま見てなかったよ。