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第8話 奉公猫
久瀬さんって、たしか、来年、三十になるんだよね。デビューが二十四の時だった。俺があの人のことを知った、っていうか、俺の兄が久瀬さんの小説を盗んだのが、そのデビューの一年前のこと。そんで、俺はその時十七だった。それからちょうど五年になるから久瀬さんは三十手前。
俺は、当時、来年になったら、このうちを出てやるって思いながら、逃げ出したいってそればっかり考えた。クライミングを始めたのはちょうどその頃。同級生が趣味でやっていたところに誘われて始めた。あの家から這いずってでも抜け出そうともがいていた気持ちがクライミングの登っていく感じとリンクして、試しに始めたのに、めちゃくちゃ速いタイムをたたき出したんだ。
必死だったからさ。
上達も、ものすごく早かった。
早すぎて、気がついたら、成績優秀、将来有望なアスリート扱いになって、むしろ抜け出せなくなった。家のコネで、通っていたクライミングスタジオは潤ったし、他の生徒さんとか、あとインストラクターにもそれなりの恩恵があったりして。スタジオは繁盛した。そしたら、俺は抜け出せないだろ。抜けたら、この恩恵は海の潮が引くようにあっという間に消えるんだから。
そして、逃げ出すことができなくなったまま、クライミングを続けた結果、肩をダメにした。
日常生活には支障はさほどないのに、クライミングには致命的な激痛と、過酷な加重による悪化の一途、なんて、ホント、身体と気持ちがもう上りたいくないって叫んでるみたいで笑ってしまう。
「あら……あなた、この前のイケメン君」
「……」
買い物をしてる最中だった。久瀬さんにプレゼントしたいと思っている手袋がまだあることを確認したかったから、今日はあえて一人で買い物をしていた。
「あ、この前は、どーもォ」
「……」
一人でよかったのか、よくなかったのか。
でも、久瀬さんが一緒だったら、嫌な気持ちにはなっていたと思う。もう、すでに、胃のところに違和感があるくらいだし。だって、今も香ってるこの匂い、嫌いだ。
「成、相当酔っ払ってたでしょ?」
「……えぇ」
「ふふ」
なんで、笑ってるんだろう。この人。
「びっくりしたぁ。なんか急に、部屋に入ろうとするの阻止するから、何かと思ったわ」
この前ほどケバくはない。真っ赤な唇も、お絵かきレベルでに縁取ったアイラインも、全部が控えめで、それはそれで、この人が美人だとわかって、苛立たしい。
そう、苛立たしいんだ。
長い髪もこの前と違って、ただ束ねてるだけなのに、質素だと思えたらいいのに。美人だなんて。そして、やっぱり鼻につく、あの日、空気に沁み込んでまで、あの部屋に侵入してきた甘い匂いに、自然と表情が硬くなりそう。
「こーんな可愛い男の子隠してたのね」
「……」
「いつもなら、ベッドまで運べとかうるさいのに」
チクッって、した。
「成、へべれけで大変だったでしょー。あの人、酔っ払うと、もう、毎回あの調子だから」
チクチクって、してる。
「いつもは、貴方が?」
「んー、まぁね」
なんか、痛い。痛い? いや、痛いっていうか、苦しい。
「付き合い長いからねぇ」
付き合い、だって。
二十九歳、男、職業、作家。書いてるものは恋愛小説。恋愛、を書いてる。
あの人だって恋愛、したことあるんだ。ないわけない。あの人、かっこいいし。
――モテただろ?
それは、あんたでしょ。
モテないわけないじゃん。けど、俺がいた間、女の気配は一切しなかった。したのは、ただの二回だけ。その二回、あの甘い女物の香水の香りに、胸んところが軋む。言葉が雑になる。気持ちが逆立つ。
「手袋?」
「……別に」
「たっか!」
俺は、きっとこの人のことが好きじゃない。
「……? あれ? ねぇ、もしかして」
いや、きっと、嫌いだ。兄とか、あの家とかとは違う嫌いが胸のところで暴れてる。
「もしかして、これ、成に?」
「違います」
「けど、だって、これ、なんとなく君っぽくないしぃ」
「いえ、高いんで」
「……まぁ、そうよね」
なんだ、この「嫌い」っていうの、初めて感じる。この棘の痛さは、知らなかった。
「ねぇ、これ、買うの?」
「……いえ」
「買うんならさ、良い仕事、紹介してあげよっか」
「……」
その嫌いな人はニコリと笑って、この前よりも大分薄い化粧だけれど、こてこての猫撫で声に媚びた笑顔で首を傾げた。
「即日現金払い。そんでぇ、まかないつき」
「……」
「そしてそして、なんと、日勤」
生まれて、初めて、欲しいものが見つかった。けれど、それを手に入れることはとても難しそうだった。
「どう?」
もしも、それを手に入れられるのなら、あの人にプレゼントできるのなら、俺はなんでもやりたいって、ちょうど思っていた。
たとえ、嫌いな女の人の紹介した仕事だろうと、かまわないって思えるほど、俺はこの手袋が欲しかった。
――仕事は超簡単。キャバクラの新規店舗の設置作業もしくは撤去作業の手伝いよ。日払いでけっこういいお金になる……んだけど! 力仕事だから、ちっとも人が集まらないの。けっこう大変でさぁ。
ちゃんと働いてくれる人が欲しかったんだと言っていた。日勤代だけじゃ、あの手袋にはまだ足りないんだけど、そこはもしも頑張ってくれるのならって、あの人が値上げしてくれるって。
俺は、それを受けることにした。
「うー、なんか、今日は冷えるなぁ。寒ぃ。あ、今日は鍋かぁ。いいねぇ」
久瀬さんが嬉しそうに鍋の中身を覗き込んで、配膳の準備を手伝ってくれる。
「あ、チューハイ買ってあるよ」
「おー、いいねぇ」
「あ、あのさ、久瀬さん」
「んー?」
――まずはお試しから、どう? 一日やってみて無理そうなら、それでもいいし。
「あの、俺、バイトしたいんだけど」
「……は?」
「そのっ! 日払いで、登録制なんだけど、現金払いだからっ、履歴書とかも必要ないし、あと身分証もなくていいって」
「は? そんなの、お前、あやしいだろうが」
「だ、大丈夫!」
――給料、割り増しにしてもらえるように私が口利いてあげる。うちの店のお得意さんなの。
「そんな危険なことするわけじゃないっぽいし。工事現場とかだし」
「……無理だ」
「お願いっ!」
――あ、やった! やってくれるの? あ、でもそしたら、成には言わないほうがいいかも。
「ダメだっつってんだろ」
「お願い! 何か外部からの刺激があったほうが記憶戻るんだって、この前テレビで言ってた」
「……」
「あと、金入ればさ。俺、家賃っていうか食費くらい出したいってずっと思ってたし」
なんでもいい。俺、初めて、何かしたいって、逃げるとか、そういうのじゃなく、やってみたいことができたんだ。
――だってさぁ、なんか、君のこと、私には会わせたくなさそうだったじゃん?
「お願い。バイト、したい」
働きたいって、あんたの手伝いになることがしたいって、思ったんだ。
「……わかったよ。ただし、条件がある」
久瀬さんはそういって、長い髪を邪魔だといわんばかりのしかめっ面でかきあげ、ひとつ、深呼吸をした。
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