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第9話 抱き枕としての資格
――ただし条件がある。
「………………」
何かと思って、身構えた。出て行けといわれるかもしれない。それとも……あの人と夜を過ごしたい時があるから、その時は、とか。そういう類のことだったら、やだな、なんて考えた。
「…………ねぇ」
どんな条件だろうって。
「……久瀬さん」
「……あー?」
「あの、これ……」
瞬間的に色々考えたけど、でも。
「何? これ」
「……」
「ねぇ、久瀬さんってば」
「うっせぇなぁ。はよ、寝ろ」
「わっ、ちょっ」
身じろぐと落ちるからって、また抱え込まれた。
「……」
背中が熱すぎて、息が上手にできない。
――今日からお前も寝る時はベッドな。
そう言われて、一瞬、理解ができなかった。
これから本格的な冬になる。ずっとソファで寝てたけれど、サイズが違っててずっと足がはみ出ていた。寒いだろうが。風邪引くだろうが。なんて言われてもさ。はいわかりましたってならないだろ。言い終わったら、わかったな? って念を押してそのまま夕飯になっちゃって、「条件」の話はストップしてたし。
なんかの冗談かなって思うだろ?
「ねぇ、久瀬さん」
「いーから! ただ寝るだけなんだから、別にかまわないだろうが!」
「けどっ」
「明日っからその仕事なんだろ? 寝ろ」
俺の戸惑いなんておかまいなしに、久瀬さんに、後ろから抱え込まれて、抱き枕にされた。
耳に触れる寝息、腹んところをぎゅっと抱えた腕。それと、長い指。寝ろって、そんな突然言われたって眠れないって、こんなの。
それこそ、びっくりした時の猫みたいに、ただガチガチに固まっていた。
結局、本当に、あんま眠れなかったじゃん。
「おーい、新人、椅子、十脚運ぶぞー」
「あ、はい!」
あの人、俺より体温高いのかな。あったかかった。背中んとこがずっとじんわり熱くて、。身じろぐこともできなかった。
別に寝床なんてソファでもどこでもいいよ。床だってかまわない。邪魔になって追い出されたらやだから、ホント。
「すげぇなぁお前、力」
「? あ、あぁ、あざっす」
あの甘い匂いの女の人、名前はアキ。あの人が紹介してくれたのは同じ水商売の店舗設置。こういうお店は一年くらいでばたばたと入れ替わることもあるらしくて、その度に撤去、設置、撤去、設置の繰り返し。日払いで収入は安定しないし、もっぱら力仕事ばかりで。働き手を集めるのが大変だと言っていた。
だから、身分証よりも、その日一日仕事をサぼらずにできる人材。そして、また都合がいい時には来てくれそうな暇な奴が重宝される。つまり、俺はそれにうってつけらしい。
「なんか、スポーツやってたのか?」
「あー……えっと」
なんて答えるべきかなと迷っていたら、肩をガシッと掴まれた。びっくりする俺にここの現場監督でリーダーと呼ばれてた人は目を丸くして、こりゃ野球やってたろ? って、見当違いの方向へと向かってくれる。
野球、やったことないよ。やってたのはクライミング。
「そしたら、次こっちのなー」
「あ、はいっ!」
肩がしっかりしてるのはクライミングのためだ。現役、の時は相当強かったよ。あと、指の力も。突起程度のストーンを摘みながら、けん垂できたくらい。
「おおー。力持ちだ」
そんな奴を抱き枕にして、あの人は寝心地どうだったんだろう。
「こりゃ、ニーちゃん、女にモテるだろォ? イケメンで、そんだけ体格良けりゃなぁ?うらやましいねぇ。」
――モテただろうな。お前、女にさ。
女、の人。
甘い香水、細くて柔らかい身体。俺とは全然違ってて、それはとても抱き心地の良い身体。
「にいちゃん?」
今、何を思った?
水面に石が投げ込まれたみたいに、表面が波立つ。その石はゆっくりと水の中を、けれど、しっかりと沈んで、落ちて、水中の地面に着地した。
今、俺は、うらやましいと。
「……」
あの人の抱き枕として最適だろう身体を持った女の人をうらやましいと思った? そんな女の人を抱いて眠る久瀬さんじゃなくて、久瀬さんに抱きしめて引き寄られて、あの懐にすっぽり収まる誰かを羨ましいって思った?
あの人に抱き心地がいいと思われる女の人を妬ましいって思った?
思ったよ。羨ましい、妬ましいって思ったよ。
酔っ払った久瀬さんを連れ帰ってきたアキさんが嫌いなのはなんで?
だって、イラついた。嫌いだった。あの甘い匂いに吐きそうになったんだ。鼻に残るし、邪魔だろ? 生活する上では不必要な匂いなんだから。人工物、なんだから。
なんでやだった? なんで苛ついた? なんで、あの人が嫌い? なんで――作家の久瀬さんに会えて、ちょっと話してみたかったっていう最初の目的が終わっても、まだここにいる? 追い出されたくないって、なんで思った?
「……す」
答えはとてもシンプルだった。
「……き」
嘘、だろ?
「あ? にいちゃん?」
だって、あの人、男だぞ?
「おーい」
憧れとか、感謝とか、そういうのだろ? 俺にとって、あの人は、兄がひどいことをして申し訳なく思ってるってとこから、そして、そんなことをされた可哀想な人だけれど、猫を、汚くて誰も拾いたいなんて思わないだろう猫を優しく抱き上げた人。俺の周りにはあんな人いなかったからさ。皆、利己的で、合理的で、計算ばっかりしてる人しかいなかった。だから、あの人の優しい笑顔は俺にとって、特別なもの見えた。
けど、それだけの話し、だったろ?
久瀬さんが持ち込んだ小説を、兄が別の作家に書かせたりしたから、それを知ってしまったから、あの家の人間として申し訳なさを感じてたんだろ? 被害者と加害者家族だった。
その翌年、久瀬が別の出版社からデビューが決って、嬉しくて、ほっとした。売り上げに貢献っていう、微々たるもんかもしれないけど、本買ってさ。そしたら、嵌って。追っかけて。あの人の小説全部揃えた。
揃えたけど。
「……」
ファン、じゃないのか?
俺は、あの人のことを――好き。
「!」
たったの二文字。たったの、ふたつ。でも、その言葉にあの人の体温が触れていた背中が、じんわりと熱を持ったのを、感じた。
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