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第10話 この気持ちの名前

 久瀬さんのことが、好き?  いや、だって、男、じゃん。俺、そういうのなかっただろ? 今まで同性相手にっていうのはさ。  けどさ、頭がそう答えても、胸んところにある棘の理由を並べちゃったら、どう考えたって、全部がひとつの言葉に繋がる。  嫉妬、それがこの気持ちを波立たせる感情の名前。そんで、その嫉妬はまた別の感情と繋がっていて、そこから生まれてくる気持ちなわけで。  憧れだと、思ってた。いや、それとも違う感じ。別にあの人みたいに作家になりたかったわけじゃない。恋愛小説を好んで読むようなこともなかった。でもあの人のは読んでた。あの猫を拾ったあの人が書いたんだって思い出しながら、ずっと読んでた。  そっと抱き上げる腕、柔らかく笑った顔、それは全部優しくて、あの人の小説も同じように優しいところがあったから、読むの好きだった。  この感情に、気持ちに名前をつけるとしたら、これは……。 「……え?」  顔を上げると、そこに。  あの、シルエットって。 「なんでっ?」  無意識にそう呟いて、自然と駆け足になった。だって、あの人がそこにいる。  なんで? 執筆は? 手ぶらで、そんな、なんもないとこに突っ立って何してんの? こんな外に、寒いのにさ。もう十二月だよ? ねぇ。  何、してんの? 「おかえり」 「!」  これの名前は「好き」が一番合ってると、思った。この感情の名前。 「え、ぁ、久瀬さん、なんで」  この人のことが、俺は。 「んー?」  マンションの手前の歩道、ガードレールのところにいた。長髪、長身、俺が風邪を引かないようにと、ソファからはみ出た足に毛布代わりにかけてくれるチャコールグレーのコート、見えた瞬間にそれが久瀬さんだってわかった。  目は、いいほうだけれど、でも、そういうことじゃなくてさ、あの人のシルエットなら俺きっとどんなところでも見つけられる気がするんだ。百人が背中を向けている中でもきっと見つけられる自信がある。  だって、もう何百回とあのビルとビルの隙間、ゴミのように埋まる黒猫を抱き上げた時の後姿を何度も何度も思い出してたから。 「待ってた」 「……」 「お前が帰ってくるの」  ちょうどここで道が左右に分かれる。俺がどっちから帰ってくるのかわからないから、その分かれ道のたもとで待っていたって笑ってる。 「……お疲れ」  笑って、ガードレールに腰掛けていた久瀬さんが立ち上がって、そして並んで一緒に歩き出す。 「どうだった? 仕事」 「疲れた」 「あはは。そっか」 「けどっ!」  日が落ちてどんどん冷たくなる空気の中、思った以上に自分の声が響き渡って、俺もだけど、久瀬さんも目を丸くしてる。 「けど……疲れ、吹っ飛んだ」 「……」 「その、えっと」  だって、あんたが迎えに来てくれるなんて思ってもみなかったから。嬉しくて、疲れなんて吹っ飛んだよ。 「元気だなぁ、若者は。って、年齢、わかんねぇけど」  違うよ。若者だからじゃなくて、あんたが迎えに来てくれたからだってば。すげぇ寒い日に何時に帰るとか言ってなくて、スマホも、なんも持ってない俺をただ待っていてくれたからだよ。 「お前はもう飯食ったのか」 「ぁ、うん、そのはずだったんだけど、予定よりも早く終わって帰らされた」 「へぇ、ラッキーじゃん。そしたら、今日はうちで夕飯だな。そのほうが俺は嬉しいよ」  嬉しいって言われて、嬉しくなってしまう自分がいる。 「ニラたっぷり入れたチゲ鍋にすっか?」  手が冷たかった。  久瀬さんも手が冷え切っていると、その時自覚したんだろう。いつもみたいに、猫を可愛がるように撫でようとして、触れてすぐに引っ込められた。指は氷みたいに冷たくて、どのくらい長い間待っていてくれたんだろうって、そう思っただけで疲れなんて吹っ飛ぶよ。嬉しすぎるでしょ。だって――。 「仕事」 「あ、うん」 「しんどかったら」 「全然、その、力仕事とか全然得意っつうか」 「へぇ」  絨毯が案外重かった。あと、椅子もけっこう重かった。でもどれもひとりで持てたから、重宝はされたっぽい。明日も、明後日も頼みたいって言われたし。  そう伝えると少しだけ顔が曇ってしまった。  大丈夫だって。そんな怪しい仕事じゃないし、紹介してくれたの、その、あんたの恋人だしさ。  なぁ、やっぱ恋人なんでしょ? 「あんま無理すんなよ?」 「うん。ありがと」 「きつかったらすぐに言えよ」 「う、ん」  なんで? あの人が恋人だから?  あんたが迎えに来てくれただけで疲れが吹っ飛ぶ。あんな大事な指が氷みたいに冷たくなるまでここで待っていてくれた。恋人がいても俺をこうして迎えに来てくれて、一緒に帰ってくれる。それが嬉しい。この優越感も、全部。  全部が繋がってるんだ。  久瀬さんのことが好きっていう、この気持ちに繋がっている。 「あ、そだ、久瀬さん」 「んー?」  二人の間を白い湯気がふわりふわりと立ち込める。ニンニクとニラの香りが食欲をそそる。 「これ、今日もらった分」 「……」  給料、日払いだから、帰りに現金支給される。いや、たぶん銀行振り込みとかできるんだろうけど、アキさんが現金手渡しに変えてくれたのかもしれない。 「は? いいって」 「けどっ!」 「いらないっつうの……」 「や、だって」  そこで久瀬さんがぴたりと止まった。金もらってもらわないと意味ないじゃん。食費とか家賃でもいい、とにかく久瀬さんの負担を減らせばここにもっと長くいられるかもと。 「お願い、もらってよ」 「……けどなぁ」 「記憶がっ、戻るまで世話」  図々しくもここにいてもいいと主張できる権利が欲しいんだ。 「記憶が戻るまで置いてくれるんでしょ?  追い出されないために。 「なら、食費でも家賃でもこれ使ってください」  あんたといるために、このお金稼いできたんだ。

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