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第11話 猫は香水が大嫌い
「ずいぶん、眠そうだなぁ。夜遊びしてたんだろ?」
そう無精ひげのリーダーが笑った。愛想笑いで答えると、ほどほどにしとけよ、だってさ。
やっぱ、ガテン系だからかすごい筋肉だな。でも、胸筋、背筋とかより、そのまん丸の腹がすごいけど。針刺したらしぼみそうな丸いお腹を妊婦のように摩りながら、伝票片手にに今日の現場へと向かった。
昨日よりも少し下品な内装、廊下は壁も天井も鏡張り、下はガラスで光が上へ向かって発射されてる。歩くだけでも目が眩みそうだけど、現場作業中は電源を切ってくれてるから大丈夫。代わりに足元は少し確認しづらい。
夜遊び、なんてしてない。
疲れただろ? って、久瀬さんが食器を洗ってくれた。一日、力仕事をしていた俺は埃まみれだったから真っ先に風呂入らせてもらったし。もうやることなくて、そんで、久瀬さんも日中執筆が忙しかったらしくて疲れたからって、そのままふたりで寝たんだ。
大の男が、ふたり、シングルベッドで。
「……はぁ」
どうしよ。
こんなことになるんだったら、自覚なんてしたくなかった。そもそも久瀬さん、彼女いるんだから。彼女いるってことは同性から好かれたって迷惑でしかないだろ。つまり、望みなんて砂粒ほどもない片想いなのに。意識しちゃったから、反応した。
身体が背中に沁み込むあの人の気配に、体温に反応してしまった。
やばいだろ。
何かの気まぐれで、しばらく置いてくれているどこぞの誰なのかすらわからない、ほぼ浮浪者同然の男。それが同じベッドの中で、身体、反応させてるなんてさ。
寝不足にもなる。久瀬さんが背後で身じろぐ度にバレやしないかと緊張してたんだから。
知られた瞬間、追い出される。
ベッドからも、部屋からも追い出されてしまう。
どうしよう。
こんなこと、知られるわけには。
「おーい新人、クロ、だっけか?」
「は、はい!」
「すまねぇが少しピッチ早めんといけなくなった」
「……ぁ、はい」
「あーくそ、年末でバタバタしてやがる」
リーダーは短髪をわしゃわしゃと手でかき乱すと盛大に溜め息をひとつ吐いた。
年末って何かと忙しかったりするのは兄たちの雰囲気でわかってた。アスリートの俺にはそういう年末年始という感覚がけっこう薄いのだけれど。
そんな年末はもちろんこうした風俗業界にもしわ寄せが来るらしく。数日前に潰れたクラブの買い手がもうついたらしい。すぐに店の開店準備に取り掛かりたいから、明日、内覧したいんだそうだ。つまり、明日までに潰れた店のあるフロアを綺麗にしておかないといけなくなった。
「あー、くそ」
「あ、あのっ! それって、夜、これから急ぎの仕事っすよね」
「? あぁ」
リーダーは人をこれからかき集めることに頭を悩ませていた。
「俺、やります! このあと、そっちの現場、手伝います!」
だって、そしたら、帰り遅くなるだろ?
「あ、すんません、一回帰らないといけないんですけど、すぐ戻るんで、場所教えてください!」
それはとても都合がいいんだ。今の俺にとって、とても都合がいい。
スマホ依存とかしないほうだったから、ないと困るとか思ったことなかった。むしろ、持ち歩かないほうが兄たちと連絡がつかなくても言い訳になるからありがたいと思えたほど。
「……おかえり」
「あ、あのっ」
今日も待っててくれた。久瀬さんらしいっていうか、まるで久瀬さんの小説みたいだなぁって思えた。あれもあんまりヒットはしなかったんだけど、俺、数回読み返したよ? 久瀬さんの小説「待ちぼうけ」っていうの。待っても待っても現れない思い人をそれでも待つお話。心が柔らかくなれる話で好きだった。なんて優しい話を書く人なんだろうって思ったんだ。
「ごめんなさい! 俺、これからまた現場」
「は?」
「なんか、急な仕事らしくて。人いないんだって。年末だし」
だから、このまま、また「いってきます」になる。けど、スマホを持ってないから、もしかしたら、またここで待ってるかもしれないと思って、一回帰ってきてよかった。
「は? だって、お前日勤って」
「けど、リーダー困ってたからさ。まかない今回からは出してくれるっていうし、ちょっと行ってきます!」
「って、おい!」
「おやすみなさい!」
遅くに帰ろう。そんな気持ちがついポロリと出た。おやすみなさいって、まだ夕方なのにあらかじめ言ってしまった。
でも、バレたら、さ。
追い出されたくないんだ。もっと、ここにいたい。実らないとわかってるけど、彼女がいてもなんでもいいから、あの人のうちに、俺の居場所を無理やりでも、作っていたいんだ。
暖房なんてついてないのにそれでも汗をかくくらいにきつい現場は、埃の匂いがしてる。そんな場所で日払いバイトを始めて今日が五日目。
ずっと、あの人とはろくに、会ってない。
夜遅くに帰ると、あの人はもう寝てて、俺は本物の猫みたいに足音を消して、風呂場で埃と汗を流して寝るだけ。残業初日の時、ソファで寝ようとしたら、半分寝ぼけた久瀬さんが、こっちだろって、怒った顔で言うから、それからはそっと、布団にもぐりこませてもらってる。
猫になれたらよかったのに。
猫じゃない俺は、背後にいる片想いの人に身体を熱くさせる、ただの変態だ。バレたら追い出されるってわかってるのに、背後から抱えてくれる腕に酔っ払いそうなほどクラクラしてさ。思わず反応しまくってる自分のやつに手を伸ばしたくなるくらい。
夜溜まった熱と願望を朝一の現場の埃の中に落っことしてまみれさせて、道端に捨てていく。
「あらぁ……あの手袋ってそんなに高かったっけ?」
「!」
そんな埃だらけの場所には似つかわしくない甘くこってりとした香水の香りはやたらと鼻の辺りにまとわりついてきて、やっぱ、邪魔。
あんたのことは、やっぱ、好きじゃない。
あんたにしてみたら俺のほうが邪魔なんだろうけど。
「現場で大人気らしいね」
「……」
「朝一から夜もあっちこっちの現場手伝ってるんだって? ねぇ」
あんたには関係ないだろ? そう言いたくて、喉の辺りがざわつく。
「もう、手袋買えるでしょ?」
「……別に」
「それとも……成と、なんかあった?」
「! なんも、ないっすよ。すんません。まだ仕事あるんで」
「え、ねぇちょっと!」
この人が動く度に香るんじゃなく、ずっと漂う甘い香水が本当にイヤで自然としかめっ面になった。
大嫌いだ、香水なんて。
けど、あの人は、この匂い好きなんだろうな。胃もたれ起こしそうだ。ずっと現場で仕事していた俺の鼻がバカになってくれてたらいいのに。この匂いには敏感に反応する。反応しすぎて、鼻が痛いくらい。
でも、久瀬さんにとっては良い匂い? この甘さがあんたのことを誘惑する? その気に、させる、とか?
バレたら終わりなのに。昨日、たまらなくなったんだ。
あんたの体温に、シーツに沁み込んだ、あんたの使ってるコンディショナーの匂いに、たまらなくて、少しだけ触った。あんたの、手に、寝てるフリして触って。そんで、朝一、その手の感触を思い出しながら、トイレで。
「おーい! 新人、ってもう新人って言わねぇか。クローこっち手伝ってくれるか?」
「ぁ、はい!」
トイレであんたのことをオカズにしてヌいたんだ。最悪だろ? 知ったら、即、俺のこと追い出すだろ?
「疲れたろ?」
「いえ、全然。このあと、まだ搬入手伝いますよ」
「わりぃなぁ、助かるわ」
「いえ」
だから、反応しなくなるくらい疲れないと。即寝落ちレベルまで追い込んでおかないと、まだ、あんたのところに居座っていたいから。
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