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第12話 移り香

 頭がぼーっとする。そりゃそうだ。毎日朝から晩まで働いてる。ここには寝るためだけに帰ってる。そんくらい疲れたら、勃つもんも勃たないだろうしさ。  えっと、今日は五時から遠いとこだった。そんで、夕方こっちに帰ってきて、そだ、久瀬さんの彼女がやってる店の軽い内装チェンジを手伝って、そのあと、リーダー入れてくれたかな。夕方からのその仕事がすぐに終わっちゃうだろうから、別の現場のヘルプに行きたいって話したんだ。  けど、さすがに、これで何連勤? えっと、八? いや、もう少しで十だったような。もう数えるのすらできないくらいに連日働いてる。最初は喜んでたリーダーもドン引くくらい。  でも、今日も――。 「クロ、さすがに今日は早くに帰れよ」 「っ!」  首んとこ、うなじに触れたのは。 「っ……」 「お前なぁ」  久瀬さんの体温。掌で掴むように、親猫が子猫を抱える時みたいにうなじを掴まれた。 「いい加減、早く帰ってこい」 「っ」  頭を抱えて溜め息を吐く久瀬さんは、きっと、本当に飼い猫である俺を心配してくれてるだけ。毎日毎日、朝から夜まで働いて、死んだように眠る俺のことを思ってくれてる。それはすごくありがたいことなのに。  感謝してるのに。 「あ、ありがとっ。その、もう行かないと、集合場所に遅れる、からっ」  感謝だけで終われない自分がいる。 「おい、クロっ」 「へーき! 俺、まだ全然余裕だからさ! トイレ、入るっ」 「クロ!」  あんなに仕事でヘトヘトなのに、勃つもんも勃たない、はずなのに。 「っ」  身体が熱くなる。あんたがうなじを触っただけで、そこから熱が生まれて、身体の中で暴れ始める。  収まれ。収まれ収まれ収まれ。 「っ」  俺は、あの人の飼い猫なんだから。あの人の、あの掌は飼い主が抱き上げる手で、親猫のそれと同じものなんだから。俺はじっとされるがままになってなくちゃいけないのに。  猫なんだから。自分でそういって転がり込んだのに。  この熱くなる身体も、ショートしそうな頭ん中も、焦げたように苦しくなる喉奥も、それに、空腹だと何かが暴れる腹の中も、全部、猫でいないといけない俺は隠さなくちゃ。  隠さないと、ここにはいられないんだから。 「リーダー、この花瓶、どうしたらいいですか?」 「あー、それはあとで、花屋が来てなんかするから、平気だ」 「はい」  ここが、久瀬さんの恋人が働いてる店なのか。内装変えたりして、キャンペーンとかすんのかな。そしたら、久瀬さんも行く? でも、恋人だから、そういう時は行かない? ほら、恋人が他の男とイチャついてるのなんて、見たくないだろ?  俺なら、見たくない。 「お疲れ様」  あんたと、久瀬さんがイチャついてるところなんて。 「ひどい顔」 「……元からです」 「あら、可愛くなぁい」 「……元からです」  嫌いな人相手にニコニコなんてできるか。 「成んちで見た君はとっても可愛かったのに」  あんたのこと、嫌いだ。 「ありがとうございます。そしたら、俺、次の現場に、ちょ、ちょっと」  嫌いだけど、久瀬さんはあんたのことが好きなんだろ? じゃあ、飼い猫の俺は愛想笑いのひとつもしないといけないんだろ? だから、無視したいのを我慢してるのに。  腕を掴まないで欲しい。イラつくから。  顔覗き込まないで欲しい。近くに来ると、その香水の匂いを鼻ン中に詰め込まれた気分がして吐きそうなんだ。 「まだ働く気?」 「次の現場、あるんで」 「もう、あのねっ、さすがに働きすぎ。心配かけてるってわかんない?」  知らないよ。 「ぶっ倒れられたら、こっちが困るの!」  だから、知らないってば。 「もおおお、こんがらがってるなぁ」  ……は? 何もこんがらがってない。俺は飼い猫でいたいのに、できてないってだけのこと。 「何? そんなにおうちに帰りたくないわけ?」 「……別に」 「じゃなくちゃ、そんな罰ゲームみたいな顔して仕事しないでしょ。もしくは修行僧」  どっちかといえば後者だよ。必死に衝動を抑えて毎日過ごしてるんだから。息を潜めて、あの人が寝返りを打つたびに緊張しながら、ほとんど眠れない夜が続いてる。 「健気ねぇ……ふふ」  頬に触れられて思いきり怪訝な顔をしてしまった。あまりに露骨だったんだろ。その人は笑って、目を細める。  触らないで。  あんたの香水の香りが俺にくっつくだろ。 「おうちにいたくないんだ?」  あ、でも、この匂いがくっ付いたら、あの人は喜んだりするのかな。 「じゃあ、うちの店で飲んでから帰れば?」  それとも、移り香がするほど近くにいたことに嫉妬したりする? 「そしたら、帰りも遅いし、ゆっくりできるし、いいんじゃない?」  嫉妬ってなんでこんなに苦しいんだろ。先代のクロは嫉妬した? この人のこと大嫌いだった? 俺は、嫌いだけれど、羨ましいよ。  こんなぐちゃぐちゃな気持ちは初めてでどうしたらいいのか、わからないほど苦しい。ねぇ、どうしたら、俺は、あんたの可愛い黒猫に――。 「クロッ!」  一日仕事すると帰りにはヘトヘトで、埃まみれの手を洗うのすら億劫なほどだけれど、それでもあんたの部屋を汚すわけにはいかないからさ。風呂にはちゃんと毎日入ってた。今日も、ちゃんと洗わなくちゃ。 「久瀬さっ……」  その手を、そんな宝物のようなあんたの手が触ったら。 「帰るぞ」 「え? あ、あのっ」  触ったらダメだ。汚れる。 「久瀬さん?」  あんたの手は、指は、優しくて甘い恋愛小説を紡ぎ出す宝物なのに。 「久瀬さんっ!」  俺の手を掴んだりしたら、ダメだ。  ダメだってばっ。 「!」 「朝、今夜は早く帰って来いっつっただろうが」  一日埃と汗にまみれた俺の手を掴んで引き寄せて、首を掴みながら、懐に押し込めるようにしたら、汗臭いのが、移っちゃうから、ダメなんだって。 「どこをほっつき歩いてんだ、お前は」  ダメなのに、首んとこがじんわりとあったかくて、たまらなく気持ち良かった。

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