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28 三つの約束
お酒とタバコの匂い。それと……。
「……」
鼻先を自分の腕に押し付けて、クンとわずかに吸い込むと甘い、ねっとりとした甘い香りが鼻の奥に沁み込んだ。
やっぱり、あんまり好きな匂いじゃない。
でも、そこまでイライラしないのは。
「あ、こんなところで休憩してたの?」
この、アキさんが久瀬さんの恋人でもなんでもないとわかって、苛立たなくなったからだ。
「あっちに休憩室あったでしょ?」
綺麗な人だ。言われなければ男性だなんて思いもしなかった。細いし、髪サラサラだし、声だって澄んだ高い声。ボーイソプラノ、だっけ? そんで、あのリーダーの弟、だっけ?
「って、あそこじゃ、むしろ休まらないか」
アキさんはコートについたフェイクファーの襟を立てると、着物のように自分の身体に巻きつけて、階段にしゃがみこむ俺の隣に座った。小さく折りたたんだ身体は細い。そのコートが座った拍子に広がって、ミニスカートでほぼ丸出しの太腿が丸見えになる。その腿も男性らしさのないゆったり滑らかな曲線を描いてる。
「クロちゃーん! って、皆おおはしゃぎだもんね」
「……珍しいんじゃないっすか」
「違うわよ。ね、君ってさ、イケメンだけど、すこーし、口がひねくれてるのよね」
笑いながら、その華奢な膝小僧をコートの裾で覆い隠した。
「すんません」
「黒猫って感じ」
あははって、笑って、その真っ白になった吐息が繁華街の騒がしい中に消えていく。
今日からしばらく、できたら今年いっぱい、せめてクリスマスまで。アキさんの店でボーイのバイトをしないかって言われた。年末の忙しい中、ボーイを務めていた人が急遽辞めてしまったらしい。まぁよくあることなんだけれどって笑ってた。
そして、俺に白羽の矢が立ったわけだ。
今回は久瀬さんはそこまで嫌な顔はしなかった。けど、条件は三つに増えた。
――寄り道しないで帰ること。酒は飲まないこと。それと。
思い出してもくすぐったくて笑ってしまう。送り迎えをさせろなんて言い出したんだ。あんたは執筆があるのに夜、外をほっつき歩かせるなんてできないよって、風邪を引いたらどうすんだよって急いで断った。その結果、迎え、だけにしてもらえた。
――それと、寝るのはベッドで、俺の隣。わかったか?
あ、これじゃあ、条件四つじゃん。久瀬さん、多いよ。四つは。
「なぁに? 笑って」
「いえ、なんでもないです」
最後の一つは条件にならないよ。それは俺の一番好きな場所なんだから。
そんなわけで、今回はちゃんと許可をもらえたアルバイト。もちろん現金払いの、まかない……のほうは断った。現金払いだけお願いして。まかないのほうはなしに。久瀬さんと一緒に食べたいから。
「黒猫……っぽいですか?」
帰ったら何にしようかな。夕飯。
「初めて見た時は可愛い男の子」
「……」
「今は、そうね……ちょっと、ひとりでこんな場所うろついてると、よからぬ欲望に駆り立てられた男に、きゃあアアア、ぁ、やめてええええ、いやああああんっ……って、されそうな色気たっぷりのネコさん」
手で自分の肩を抱きしめながらブンブンと身体を左右に振って、いきなり叫んだりするから、びっくりした。
「な、なんすか、それ」
「うふふふ」
「最初はノンケの可愛い子、けど、今の君は男を誘惑するイケナイネコちゃん」
「?」
「って、感じ? 成もめろめろー、でしょ?」
目を丸くして、その言葉に胸が躍る。そうであればいいなと、その胸のうちで強く願った。
「あの、久瀬さんの、その歴代の彼氏って」
「……知りたい?」
「そ、そりゃ、まぁ」
自分の過去は捨てたいほどいらないからと教えてないのに、知らないフリをしたままなのに、あの人の過去は知りたいだなんてね。
「すっごく知りたい?」
「は、はい」
「すごおおおおく、知りたい?」
「はい」
綺麗な人、だったんだろうか。でも、可愛いほうが好きなのかもしれない。よく俺を可愛いと言って、嬉しそうに可愛がるから。
どんな人だったんだろう。
「……」
でも、あの人のことだからとても綺麗な、可愛い人だったんだろう。何せあの人自身がカッコよすぎる。
「実は……」
「……」
「…………知らないの」
「! は、はぁ?」
すごい溜めるからどんなことを言われるんだろうとかなり身構えたのに。
俺のその様子が可笑しかったんだろう。アキさんがけらけらと楽しそうに笑ってる。もうなんなんだよ。知らないって。だって、そんなわけないじゃん。幼馴染って言ってたし、あの人はアキさんとアキさんのお兄さんのことを知ってたのに、なんで、久瀬さんのことは何も。
「けど、本当に知らないんだぁ。成、そういうの話したがらなかったし」
「……」
「だから、成の彼氏はクロたんが初遭遇よ。どう? 嬉しい?」
「そ、なんですか」
「うん、恋愛小説家だけれど、何より恋愛を信頼してなかった人だからさぁ。あいつ、優しいでしょ?」
そっと頷くと、わずかに笑って、また一段と寒くなったのか、膝をきつく抱え込んだ。
「優しいから」
「……」
「まぁ、理由はあいつに直に聞きなよ」
なんとなく理由は想像がついた。そして、その想像した理由に胸のところが締め付けられる。きっとあの人は優しすぎて、手を離してしまいそうだ。相手の行きたい場所を遮ることはしないと思う。今まで、きっとそうやって、見送ってばかりな気がして、今すぐ抱きしめたくなった。ぎゅってしたくて、指先が久瀬さんの体温を求めてじんわりと火照り始める。
「君は別だったみたいね」
「!」
「……」
「な、なんすか?」
綺麗な顔のドアップ。けど、この至近距離に来ても、この人が男だって思える要素がこれっぽっちもないのがすごい。ぶっちゃけてしまえば、俺が交際した女性よりもずっと。
「ラブラブ、なのね」
「!」
四つん這いで、さっきまで寒そうにしていたはずなのに、コートの裾が割れて見せ付けるように外気に触れた。
「なんか、色っぽくなっちゃったよねぇ」
「そ、そうですか?」
「ね……私、貴方のこと、どっかで見たことが」
「!」
思わず竦み上がった。アキさんが俺をどこかで見たことあるのは気のせいかもしれない。気のせい、だろう。けれど、もしかしたら気のせいじゃないのかもしれない。
どこかでクライミングをしていた頃の俺を見たことがあるのかもしれない、と、一瞬で背中が冷えた。
「クロたん?」
「す、すんませんっ、もう休憩終わりなんで」
そして無意識に前髪で目元を覆い隠しながら、その場を逃げ出した。
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