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第29話 この黒猫は懐かない

 クライミングをしていた時は家の要望もあって、マスメディアへの露出はそのジャンルのスポーツとしては多かったほうだと思う。いい宣伝になるからさ、「わが家」の。だから、俺のことを見て覚えている人も少なからずいるとは思う。アキさんもそうなのかもしれないと、慌てて、前髪で目元を覆い隠しながら、その場を走って逃げた。  だから、気がつかなかった。 「おっと」 「っ!」  前から歩いてくる人に気がつかなかった。 「っとっと」  体当たりの正面衝突。  元、だけれど、それでもアスリートだった俺は、アキさんみたいに細くはない。それなのに、そんな俺が体当たりしてもビクともしない人なんて。 「……危ない。大丈夫だったかい?」 「!」  そんな人って、いるんだ。 「気をつけないと」 「あ、えっと……すいません」  久瀬さん、くらい、身長あるかな。でかい。けど、久瀬さんと違って、笑顔が、すごく、社交辞令じみてる。 「あれ? 菅尾(すがお)さんだぁ」 「やぁ、アキちゃん」  知り、合い? なのか? アキさんと、この紳士。  その、菅尾さんと呼ばれていた人は体当たりしたくせによろけた俺を抱きかかえて起こして、アキさんと談笑し始めた。  お客、さん?  にこやかに笑って、アキさんから視線がこっちに移った。こっちをちらりと見て、目を細め微笑みながら、小さくお辞儀をしてくれた。それはとても優しげに思えるけれど、でも身構えた。  堀が深くて、目鼻立ちがしっかりした整った顔に、憮然とした物腰、上流を思わせる綺麗な言葉使い。  あの家と、同じ匂いがする気がして身体が強張った。黒猫になる前にいた、あの家と同じ匂いがした。 「えー? 海外に行ってたの? すごい! 今回はどこどこ?」 「ヨーロッパのほうをね」  高級アンティーク家具のバイヤーなんだってさ。顧客はセレブばかり。誰もが知っている有名人も顧客の中に名を連ねていて、インテリアコーディネーターも兼ねてるから家具一式のアレンジを任されることもあるらしい。  アキさんのお客さんで、歳は、三十ちょっと。海外を飛び回っていて、ふらりと日本に帰って来ては、また海外へ。その合間にアキさんのいるこの店に寄っていく。お土産はいつも海外の甘いお菓子。  アキさんは嬉しそうだった。その甘いお菓子も、この人の甘いマスクも台詞もお気に入りなんだろう。  でも、俺は、好きじゃない。  その四六時中、外にいる間は貼り付けているんだろう口元の笑みも、完璧すぎる会話術も、その高級ネクタイも。  それでもお酒もバンバン開けてくれるこの人の登場にアキさんがやたらとはしゃいでいた。 「……」  久瀬さんに、会いたい。  弾んだ会話、いつも以上に華やいでる笑い声から少し離れたカウンターで、そんなことを考えてた。 「君もどう?」 「!」 「チョコレート」  だから、菅尾さんがすぐ近くに来ていることに気がつかず、声をかけられて、パッと顔を上げた。 「あ、いえ……」 「君はキャストじゃないの?」 「ち、違いますっ」 「ふーん? 似合いそうなのに」  社交辞令にも程があるだろ。俺が? アキさんみたいに? ありえない。似合うわけがない。  菅尾さんは頬杖をつきながら、にこやかに笑ってるけど、俺は、げっそりした。何を言い出すんだこの人。からかってるんだろうけど、趣味が悪いからかい方だ。 「からかってるって思ってるだろう?」 「……いえ」 「本当に、そう思ってるんだけど」 「俺、臨時のスタッフなので」 「そうなの? いつまで?」  本当にげっそりだ。なんなんだ、この人。客だから我慢してるけど。アキさんが久瀬さんの幼馴染だから、我慢、するけど。 「……数日です」 「じゃあ、明日もいる?」 「……わかりません」 「いてね?」 「は?」  なんなんですか、そう言いたいのをどうにか堪えた俺に、また涼しげに笑いながら、目を細める。 「チョコ、とても美味しいから、どうぞ」  いらない。  本当に、いらない。 「あのっ」  俺は、あんたみたいに微笑む人種が、すごく嫌いなんだ。 「あ、そうだ。ワイン、おかわりもらえるかな? 赤の」  そして、菅尾さんはわざとなんだろう。流暢なフランス語でワインの小難しい銘柄を言うと、険しい顔をした俺に笑って、ごめんごめんって、からかってしまったと、ワインの銘柄なんてこれっぽっちもわからない俺にもわかるように、ゆっくり丁寧に、もう一度オーダーをした。 「……疲れた」  店を閉めて、皆と一緒に外に出た途端、寒さに肩を竦め、ダウンコートの中にそんなぼやきと溜め息を吐き出す。 「お疲れ様ぁ」 「……アキさん」 「クロたん、顔に出すぎ。本当に猫みたい」 「だって」  だって、オーダーはテーブルでできるのに、わざわざ立ち上がって、カウンターにこもってる俺のところに来て注文してきたんだ。閉店ぎりぎりまで居座って、よくあんなに飲めるよ。あの人、合計何杯飲んだと思ってるのか。そう、何杯も、だ。ボトルで頼めばいいのに、グラスが空になる度に注文しに来てた。グラスのほうが割高ですよって何度言ってもにこやかに笑って、早くワインを、ってさ。 「めったに懐かない」 「別に……」 「でも、それがまた男の支配欲を駆り立てるっていうかさぁ」 「俺はっ!」 「自分のものにしたくなるのよ」  アキさんが肩を竦め下から覗き込むように、俺を見上げて、額のところをトンと指先で弾いた。 「君、可愛いもん」 「……」 「あの成がベタ惚れしちゃうくらい」 「……」  ほら、お迎えが来てるわよ。そうアキさんが指をさして教えてくれた。俺は突付かれた額のところを手で押さえながら、その指の示すほうへと振り向いて、あんたを見つけた。 「っ」  アルバイトしてる間ずっと会いたかった久瀬さんが笑ってた。 「お疲れ様ぁ、そんじゃーね、クロたん」  そんなアキさんの声も遠く聞こえるくらい、あの人の足音にだけ耳を傾けて、あの人が笑った拍子に吐き出す白い息すら食べて飲み込んでしまいたくなるほど、恋しさが、一瞬で溢れた。

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