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第38話 冷たい石ころ
菅尾さんだった。声をかけられて、振り返ると黒いロングコートに深みのあるブラウンのマフラーをして、すぐ隣には黒光りしている高そうな車が停まっていた。
雑多な繁華街には少し不似合いな装いが、とても目立っていた。
「数日見ないだけで、君はまた、不思議な魅力が増したね」
「……菅尾さん」
この人種はよく知っている。けど、懐かしさはない。
「クロくん」
「……」
ただ、思い出す。
「櫻宮(さくらみや)」
「!」
あのうちを。
「稜(りょう)君」
吐きそうになった。自分が二十年間、名乗ってきた名前なのに、今その名前で呼ばれると、ひどい違和感に吐きそうになる。異物感に眩暈がする。
「少し、付き合ってくれないかな」
「……」
「ね? 稜君」
この場に座り込みたくなるほどの気持ち悪さの中、ふと、菅尾さんはこんな顔をしていただろうかと、思ってしまった。
でも、なんだろう。きっと、どこかで覚悟はしていたのかもしれない。いや、そうじゃない。ただ、知ってたんだ。人違いです、なんて言ってこの場を逃げられないって。この人種は自分の思い通りにならないものを決して許さないことを、嫌というくらいに知っていた。
高い車は揺れないし、音もしない。乗り心地は、遠方の会場設置仕事で乗ったリーダーの軽トラとは比べられないものなのに。
「どこかで見たことのある顔だなぁって思ってたんだ」
とても気持ち悪くて、吐きそうだった。今、この革のシートに吐いてしまったら、この人は激怒して俺を車から放り出してくれないだろうか、なんてことを考えていた。
「一昨年だったかな。クリスマスパーティーで君に挨拶をしてもらったんだけど。覚えてない?」
「……覚えていません」
「そっか、そうだろうね」
そう言って、菅尾さんはまた笑っていた。
覚えているわけがない。誰も、どれも、スーツにネクタイをしたのっぺらぼうだった。兄たちはどうやってそののっぺらぼう一人一人の名前と簡単なプロフィールを覚えているのだろうと不思議だったっけ。
どのくらいの規模の事業を行っているのか、どの役職なのか、誰とどういう繋がりがあるのか。
俺にはさっぱりわからなかった。
「俺は、欲しいものは手元に置きたくなる性質なんだ。いつだったか。数日前にね。見たんだ。可愛い子だなぁって、思っていた君が、恋人とキスしているところを」
ニコリと笑って、菅尾さんが組んで脚、膝の上に手を置いて首を傾げる。
「キスをしている君を見たら、無性に手に入れたくなった」
あの時だ。菅尾さんがアフターでアキさんたちをどこかお店に連れて行くって、総出で、俺は久瀬さんが迎えに来てくれて一足先に帰った時。この人を警戒して、いつもはあがってこない上の階まで来てくれて、嬉しくてたまらなかった。キスマークをくれたことにはしゃいでキスをした晩のことだ。
「あんな甘えた顔をするのかと、ゾクゾクしたんだよ」
知らない。あの顔はこの人に見せるためにしたわけじゃない。あれは久瀬さんに見せたものだ。あなたじゃない。俺はあの人にだけ見せたかった。
「あんな顔で欲しがられたら、さぞかし気持ちイイだろうと思って」
「……」
「手に入れたくなってね」
そこで一呼吸置いて、菅尾さんが、脚を組み替え、窓枠を指で撫でた。とても気に入っている車なんだろう。少し口元を緩めて、気持ち良さそうに車を撫でている。
「抵抗するかと思ったけど、抵抗はせずに車には乗ってはくれた。が、嫌われてしまったようだね」
「……」
そもそも貴方のことは好きじゃなかったよ。似ていると感じていたから。なのに、まさか、あの家の近くにいる人物だとまでは想像していなかった。今、初めて、あの挨拶周りで遭遇したのっぺらぼうたちのことを名前と顔くらいは覚えておけばよかったと後悔している。
「そして、君の素性を思い出した。けれど、まさか……だろう? そりゃ忘れてしまう。、櫻宮の末っ子とあんな場所で遭遇するとはね」
あぁ、どうしよう。指先から体温が消えていく。
「クライミング、君はオリンピックが控えてるんじゃなかったっけ? 私はスポーツにはあまり興味がなくて疎いんだが。競技のほうは大丈夫なの? あんなところでアルバイトなんてして。社会経験? それとも家出? アキちゃんが言ってたけれど、記憶喪失、なんだって? それにしては、今この状況に動揺もしてない。」
ずっと寒かった。ずっと冷たかった。ずっと、俺は……ここにいた。
「記憶喪失ということにして、あそこから逃げたかったのか。かわいそうに」
この硬くて冷たい石ころばかりの場所に。眠るのさえ身体が軋むくらいに痛くなる。ずっと体温を奪われ続ける石の上にいると、指先の感覚がなくなっていく。
掴んでも、掴んでも、その石は冷たくて、硬くて、上へ上りきってしまえば楽になれるんじゃないか、って逃げるためにストーンを掴んで、しがみついていた。もうかじかんだ指先じゃなんにも掴めなかった。
「たしかに君はあの家で浮いていたが」
――早く、帰って来いよ。
でも、今は、もう、かじかんでない。
「家の人は知ってるの? あそこは厳しい家だ。あんなところで仕事をしていたと知ったら、君は」
――寒いから、これしてけ。
今は、帰る場所がある。そこはこんなに冷たいところじゃない。寒くないし硬くも、痛くない場所。
「俺は、クロです」
「……」
「貴方の言った人物とは別人です」
あの人が、いる。
「稜く、」
「違います。俺はもう櫻宮稜じゃない。あの人たちにとって無価値なものですよ。オリンピック選手として、あのうちのいいアイテムにはなれなかった。だから、俺がどこで何をしようが、犯罪以外なら気にもしないでしょう」
そうでしょ? そう、隣にいる菅尾さんを真っ直ぐ見ながら答えた。
「実際、俺がいなくなったからと捜索願なんてものは出されていないはずだ」
俺の帰る場所はあっちじゃない。俺の帰る場所は。
――クロ。
久瀬さんのところだ。
「うーん、そう……か」
「えぇ」
「なるほど」
あの名前は捨てた。俺はただの黒猫で、あの人のところで飼われている。俺の家族はあの人だけ。久瀬さん、ただその人だけが――。
「久瀬成彦」
「!」
「だったっけ? 君とキスしていた男」
恋愛小説家、だったよね? そう菅尾さんは言うと、車の向こう側、繁華街ネオンが反射したのか、鋭い光を瞳に宿して、突き刺すように俺を見つめた。
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