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第39話 選ぶのは君
母は水商売をしていた。アキさんとかと同じようにお客さんの酒の相手をする仕事。その美貌を武器に固定客は金持ちばかりだったらしい。その中で一番の金持ちだったのが、俺の父でもある櫻宮だった。
外国人の母はアンバー、琥珀色の中でもひときわ明るい金色の瞳をしていて、それが父はひどく気に入ったらしい。
俺のこの月色の瞳にはそんな母の血が一番色濃く出ていた。
だから、兄達は俺と目が合うだけで表情を歪ませることが多かった。イヤだったんだろう。櫻宮の家に商売女の血が混入してくることが。その表情はまだ十歳にも満たない子どもの俺ですら、嫌悪されているとわかるほどで、俺はいつしか俯いていることが多くなった。
そして、母が病気でなくなってからは、よりいっそうその嫌悪が露骨になっていった。隠すつもりなど皆無だった。もうその頃は家とは、俺にとっては監獄、兄達にとっても邪魔者がチラつく悪環境でしかなくなっていた。全員、嫌気がさしていた。
それでも追いだされなかったのは、俺がクライミングでオリンピック出場一歩手前までいけたせい。櫻宮の才は勉学、ビジネスだけでなく、スポーツ界にまで広がるのかと、周囲にしらしめることができるから。
最初から嫌われていた血。もしもそれが使いものにならないのなら、捨ててしまいたいって思ってるはずだ。
だから、もう俺はあの家には必要ない。
菅尾さんが何をどう言ったって、あの家の人間は俺が帰ってくることなど望んでいない。ここにいることを言ったところで一ミリだって動かないよ。
例えば、君がここにいることを言えば、どうなるかな? って、あなたが俺に尋ねたら、答えはひとつ。
――どうにもならないよ。
ただ、そのひとつだけ。
「久瀬成彦だったっけ?」
でも、その名前が出るなんて考えてなかった。
「君とキスしていた男」
「……」
「彼のことも調べたんだ」
「!」
菅尾さんの表情が変わる。窓枠に肘を置くと、こっちを見て、目元を細め、嬉しそうにした。
「彼、新人賞を獲ったことがあるんだって?」
「……」
「今はあまり売れてないようだけれど」
なんで、この人は久瀬さんのことを調べて、何を、どうするつもりなんだ。
「でも、今もコンスタントに小説を出版している。まぁ、賞を獲ったことも効いているんだろうけれど、それでもたいしたものだ。小説家でい続けることは、小説家になるよりもずっと難しいと思うよ」
ジッと観察されて、身が竦む。その眼差しがあまりにも櫻宮の人間に似ていたから。
菅尾さんは久瀬さんの職業、小説家というだけでなく、シナリオライターとしても活躍していることを知っていた。シナリオライターとしてはけっこう売れてるようじゃないかって、微笑まれたけれど、それはとてもイヤな笑い方だ。
「才能が、あるんだろうね……」
とても、イヤな気配がした。
「人が盗みたくなるほどの」
とても――。
「たとえば、作家デビューする前、まだまだ原石の段階でも見てわかるほどの才能が」
「……」
「あったんじゃないかなぁ」
この人は、知ってるんだ。久瀬さんの小説は盗まれたことを。
「最初、これをネタにしてみようと思ったんだ」
「!」
「君のお兄さんが作家の卵が持ち込んだ小説を盗んで他の作家に与えたことを告げ口されたくなかったら……って。でも」
そこでひとつ間をおくとこっちをじっと見て。
「でも、あの彼は、君のことをとても愛でていたから、そんなの意に介さないかもしれない」
その眼差しが鋭さを増した。アキさんのところでワインをオーダーしてきた人とは別人のよう。
「だから、もう少し調べてたんだ。それで時間がかかってしまってね」
調べるって、何を? 久瀬さんのことを? それとも、他に何かあるのか?
「君のお兄さんは敵が多いらしい」
「……え?」
思いもしなかった事だった。
「まぁ、彼はとても強い合理主義というか、あの家を正義と思っているところがあるようだからね」
「……」
「反感、を持つ者もいるだろう。彼を失脚させようっていう動きがあるようななんだ」
兄が失脚? あの人が? 転落させられるのか? あの、櫻宮の、高いところから?
「で、君の愛しい主だよ」
「久瀬さんはっ」
「やっぱり、彼のこととなると君は表情が変わるな」
「っ」
兄の失脚なんて久瀬さんにはなんの関係もないことだろ? なんで、それが久瀬さんに繋がるんだ。だって、あの人は、小説家で。兄は――。
「新人賞獲得作家の小説をデビュー前に盗んだとなったら、櫻宮次男坊の地位はどうなる?」
「!」
「いや、あの厳格な当主がそんなばかげたことをしでかしてた次男坊を、櫻宮の名に泥を付けた者をそのまま放ってはおかないだろう? でも、まぁ、そこは櫻宮の事情だから、俺にとって内輪がどうなろうが関係ない。興味だってこれっぽっちもない」
この人種はそういう生き物だと、俺はよく知っている。自分の思い通りにならないことが大嫌いだけれど、それを力でねじ伏せて、自分の思い通りにすることがたまらなく好きなんだ。
「私にとって重要なのは、君、だからね」
「……」
「君をどう手に入れるか、だ」
ほら、菅尾さんはいい方法を見つけたと楽しそうに笑っている。
「君のお兄さんを失脚させるために、これから、その人物達は、材料集めに躍起になるだろう。私が見つけられたんだ。盗作の一件を彼らが知るのは時間の問題だ」
獲物はもう捕らえたも同然だと、笑っている。
「君にはいくつか選択肢がある」
ひとつは、このまま主のもとで変わらず暮らすこと。ただ、その場合、櫻宮の人間、もしくは兄を失脚させようとする人物達が、その日常を壊しにくるかもしれない。
もうひとつは、櫻宮の元に戻り、このことを兄達に伝える。ただ、もう戻ってこれないかもしれない。いや、戻る場所がないかもしれない。何せ、主だった男はその黒猫の元家族が自分にした罪を知ってしまうだろうから。彼が気にしないと言っても、主人を愛して止まない君は罪悪感で今まで通りには彼のそばにいられないだろう?
もしくは、盗作された小説データを全て盗んで、櫻宮に敵対している側か、櫻宮でもいい、渡してしまえば、もうこの件に関与する余地がない。ただ、これを選んでも、やはり君は罪悪感を感じてしまうだろうけれどね。
でも、あと、ひとつ、選択肢があってね、と菅尾さんが囁く。
「ここに航空機のチケットがある。行き先はヨーロッパ。海外遠征の多かったアスリートの君だ。実家にパスポートがあるだろう? 新しい年を新しい環境で、私と迎える。もちろん、愛人として」
「!」
「君が私に同行してくれるのなら、櫻宮家にかかるだろう盗作という疑惑を全て払拭してあげよう。もちろん、久瀬成彦へは充分すぎるほどの配慮をしよう。そのくらいの力は持っているんだ。それに、櫻宮に恩義を売ることもできて、私にとってはとても良いこと尽くめでね」
どの選択肢よりも丁寧に、一番イメージがわきやすいように、菅尾さんが説明をする。これを選ぶのが最善だよと笑いながら。
「つまり、久瀬成彦の執筆、作家としてのこれからを一番邪魔しない選択肢ということだよ」
そう告げた声は四つではなく、唯一つの選択肢を俺の目の前に転がした。
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