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第40話 猫は主人の邪魔をする
久瀬さんは作家だ。あの人は苦しくても、迷っても、書くことを止めなかった。俺の、クライミングとは違う。あの人の、「書く」っていうことは、きっと息をするとか食事をするとか、そのくらいに生きることと同等のものなんだと思う。
もうずっとあの人の執筆中の背中を見てきたからわかるんだ。あの背中は力なんてひとつも入れずに、スラスラと踊るように文字を綴り続けていた。言葉を繋ぎ続けていた。その背中を見るのがとても好きだった。午後、ゆったりと流れる時間の中、穏やかな息遣いとリズミカルに文字を綴り続ける軽やかな音。
あの人にとって書くことは、なくなることのない大事なもの。
「ったく、お前は、どこをほっつき歩いてたんだ!」
書くことは、なくなってはいけないもの。
「……ただいま。コンビニ寄ってた」
愛してる人から、それを奪えるわけがない。
「あ? コンビニ?」
「もうお正月じゃん? 久瀬さん、実家がお店やってて、お正月は帰省しないんでしょ? なら、おせちとか作らないといけないのかなって。でも作り方わからないから、レシピ本見てた」
「……」
「遅くなってごめんなさい。ね、今日の夕飯なに?」
あぁ、って、気がついたんだ。
俺はどこかでずっと黒猫のままでなんていられないとわかっていたんだ。いつだってそうだった。今日までかもしれない。明日で終わりかもしれないとずっと思いながら、ここにいた。
ただ、その日がやってきただけのこと。いつ来るのかと不安だったその時が、今、ここだったってだけのことだって。
「クロ」
「んー?」
顔を見たら泣いてしまうだろうから。だから、慌てて、洗面所に逃げ込んだ。手を洗って、顔を洗って、タオルで目のところをきつく拭って。
あ、そうだ。洗濯物、今のうちにセットしておこう。そしたら、明日の朝、起きてすぐに干せるから。朝からだったらギリギリ乾くよ。確か、明日の天気は……なんだったっけ? 明日の天気。
「……何か思い出しかけたのか?」
昔、あの家にいた時みたいに下を向いていた。俯いたまま振り返ったところで、前なんて見てなかったから、久瀬さんに体当たりをしてしまった。
「……クロ」
そうだったね。俺、そういえば、記憶喪失ってことにしてるんだっけ? もうあまりにも、櫻宮稜っていう名前を使っていなかったから、本当に忘れてしまっていた。
本当に貴方の黒猫なのだと、思ってしまっていた。
違うのに。猫はこんなに大きくないし。こんなに硬くない。尻尾も耳もなければ、黒い、撫でたらベルベッドのような毛皮もない。黒猫になんてなれるわけがない。
「……怖い記憶だったのか」
「っ」
思わず、しがみ付いてしまった。小さくもない俺はできるだけ貴方にこの瞳が見えないように肩を竦め、身体を丸めて小さくなれるよう努力をした。
怖い、記憶、かな。あの視線の中にいるのはとても怖い。
選択肢はいくつもある。けれど、実際選べるのは、とても限られている。
「怖いことだったら無理に思い出さなくていいぞ」
でもさ、貴方を傷つけるのが何より怖いんだ。
「平気だ」
ねぇ、俺の兄は貴方の宝物を盗んだんだよ。貴方の小説を何度も何度も読んでいた、大好きだった。だから、その言葉を盗んで、貪った兄のことが今は、今まで以上に嫌悪している。でもさ、俺も共犯だ。あの電話を聞いていた。知っていたんだ。なのに何もしなかった。
「クロ」
ごめんなさい。
そう胸のうちで呟いた。貴方の邪魔をして、ごめんなさいって、胸の中で何度も呟いていた。
昨日はセックスしなかった。久瀬さんは記憶の断片を思い出した俺のことを気遣ってくれたんだろう。何も知らない、あの人は、俺のことを疑いもせず心から心配してくれる。
「えっと、ガソリンスタンドを、右……そんで、あ、あった、コンビニ」
――コンビニのところを左に曲がって二つ目のアパート。そこが昭典んとこだ。
リーダーに電話で聞いた。あまり時間ないから。挨拶だけって思ってさ。よくしてもらったし、それに、きっと、久瀬さんのことを頼めるの、この人しかいないから。
俺がいなくなった後のこと。
アキさんに挨拶をして、そして、今夜、菅尾さんが迎えに来る、から。
「はいはーい」
いきなりじゃ失礼だったかな。でも、リーダーは気にしなくていいって、言ってたし。スマホがないから連絡をあらかじめにすることもできなくて。
「はい。どちら……」
「……」
びっくりだった。
「クロたんじゃん」
だって、どちら様? と尋ねるこの人に俺がどちら様? と訊きたくなるほど、普通に男性、だったから。
「あははは、何? オフの日も女装してると思った?」
「はい……」
アキさん、というよりも、昭典さんだった。髪、ウイッグだとは思ってたけど、柔らかいクリーム色をした緩いパーマをかけたヘアースタイルは女の子っぽくはなく。親しみやすい印象の男性だった。友達の多そうな大学生って感じがする。
「ないない。俺、昼間は仕事してるし」
「ブッ、げほっゴホッ」
「ちょ、大丈夫?」
「す、すみません」
アキさんの「俺」にびっくりしてむせてしまった。でも、笑って、タオルをサッと出してくれるところはいつものアキさんっぽい。
「女装は趣味でしてるんだ」
「え?」
「びっくりした?」
知らなかった。そんな感じしなかったし。久瀬さん、何も言わなかったから。
「そんで? わざわざ俺んとこにクロたんが来るって、なんかあった? あ、もしかして! 俺に乗り換える? 成から」
そんなことありえないのはきっとこの人が一番わかってる。
「あの、今日は……」
久瀬さんのこと、俺がいなくなった後のこと、お願いしますって、どう言えばいいんだろう。
「昼間、仕事してるって、言ったでしょ?」
「あ、はい」
「医療系なんだ」
「え?」
「待合室ってさ、テレビ、あるでしょ?」
昭典さんがそういって、普段の職場で目にしているあたりなんだろうか、空を指差して、笑った。映ってたって、俺が、そのテレビに。クライミングのオリンピック候補者として。
「イケメンイケメンって騒がれてたからさ、覚えてた」
「……」
「そんで、君が本当は記憶をなくしてないことも、気がついてた」
指先がピクンと反応した。反応して、その手がじわりと汗を滲ませる。
「成には言ってない。クロたんが悪い奴じゃないのはわかってたからさ、成に害となる人じゃないって思ったから、言わなかったよ」
「……」
「それで? 成にバレたとか?」
フルフルと首を横に振った。
「それじゃないとしたら、なんだろう」
うーん、と唸る昭典さんに首を振り、そっと、声が震えないように気を付けながら、久瀬さんのことを頼みに来たと告げた。
「成のとこ、出て行くの?」
「……」
「成には話さずに?」
「……」
「それは、成のため?」
頷いた。頷いて、そして頭を下げた。
「……それは、なんで頭を下げてるの?」
「……」
「今、クロたんに言いたいこと、たくさんあるんだけど?」
「……」
「でも、ひとつだけにしとく」
俯いていた俺の顎を強引に手で持ち上げる。
「成のため、クロたんのため、なんて、意味ないのよ」
「……アキ、さっ」
「恋愛は二人でするんだからさ」
でも、アキさん。あの人から、書くことは誰も奪えない。それは「愛してる」と言ってもらえた俺にすら許されないことでしょ? だから、選択肢はそうたくさんはないんだ。
「ねぇっ、クロたんっ」
選択肢は、ないんだよ。
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