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第41話 君の名は
ただいま、その挨拶がいつもより丁寧すぎていなかっただろうか。
おかえり、って言ってくれた声を噛み締めて、泣きそうになったと見つかっていないだろうか。
アキさんに挨拶をして、久瀬さんのアパートに戻るまでの道、風景を目に焼き付けておかないとって思った。そこから出て行く時の風景じゃなくて、そこに帰っていく時の風景を。もうここに帰ってくることはないだろうから。
菅尾さんが駅前に迎えに来る。ちょうど、十二時に。俺があの人のところへ行けばいいだけ。それが合図になる。俺が菅尾さんの車に乗ったら、櫻宮のとこへの手配も、久瀬さんへの考慮もすべてが開始される。
――出発の準備があるからね、一日だけ君にはホテルにいてもらうことになる。それが日本で過ごす最後の一日だ。そして、君が迎える新年は異国だ。楽しみにしているといい。
きっと気に入るよ。そう笑っていた。
どこでもいいよ。ここ以外ならどこにいても別に、どうだっていい。
「……」
この人がいる、ここ以外なんて、どこだろうと同じだ。
久瀬さんの寝息をあと、少しだけ、あと少しだけって聴いていた。
でも、そろそろ、行かないといけない。駅まで歩いて少しかかるから。よかった、帰り道で強めのお酒を買ってきておいて。久瀬さんが酔っ払って寝てくれてる。
そっと、起こさないようにそっと。
もうコツは覚えてる。この人のベッドから抜け出す方法なら、前に久瀬さんに知られたら追い出されてしまうと、こっそり夜中に抜け出したことがあるから。焦がれて反応した自分を慰めるために。だから、大丈夫、そっと気がつかれないように、身体をスライドさせた。
「っ」
身じろいだところで、中に出された久瀬さんのがトロリと滲み出たのを感じた。
シャワー、浴びないと、かな。やだな。流してしまうの。
ゴム付ける暇を与えなかった。欲しくて欲しくて仕方ないから早く、挿れてって、ねだって、そのまま抱いてもらった。中に出してって。
もう、最後だから、この人とセックスできるの今日で最後だったから。
ごめんなさい。
急かして。
無理させてないかな。お酒、相当飲んでたし、あとで、二日酔いとかなりませんように。
きっと、俺が思い出した「記憶」のことで何か思い悩んでるって思ったんでしょ? 記憶をなくす前のことを少しずつ思い出して、そして、今のこの暮らしとの間で板ばさみになっているって。
抱いてってねだると応えてくれた。中に出してって腰を揺らすと、少し寂しそうに笑って、キスをしながら、俺の中でイってくれた。
欲しい分だけ、与えてくれた。
望む分だけ、たくさん可愛がってくれた。
ごめんね。
貴方を欲しがるばかりで。
――君にはいくつか選択肢がある。
選べるわけがない。
――盗作された小説データを全て盗んで、櫻宮に敵対している側か、櫻宮でもいい、渡してしまえば、もうこの件に関与する余地がない。
そんなのできるわけがない。
俺にとっての最優先は、大事なのは、久瀬さんなのに。
――恋愛は二人でするんだからさ。
二人で幸せになれる方法を、ってアキさんは言いたかったんだろうけど、そんな方法ないんだ。この人に迷惑をかけないのが一番嬉しいよ。一番、選びたい選択肢で、俺はそれを選ぶのが幸せなことなんだ。それ以外に俺が幸せになれることなんて、ない。だから、選べる道はひとつしかない。久瀬さんを幸せにできる道なんてない。
何もできないけれど、貴方を守るためにそれを選ぶことはできるよ。自分よりもずっと貴方のことが大事だから、ちゃんとできる。やれる。
この人のところから。
「……どこ、行く気だ」
出ていく。
「えっ、なっ!」
「……悪い黒猫だ」
「久瀬さっ、わっ!」
そっと、そっと、抜け出せたと思った。音も立てず、気づかれずに、ホッと、一息ついた、次の瞬間、手首を掴まれ、強引にベッドに引き戻された。
「久瀬さんっ!」
「トイレか?」
「っ」
「まぁ、トイレでもいいけど。ここで、しろよ」
「ちょっ」
何言ってんの。ねぇ、久瀬さん。
「酔っ払えるかっつうの」
「!」
太腿の内側を強い力で割り開かれる。そして――。
「ちょ、ぁ、あぁぁっ」
指を孔に挿れられて、腰が跳ねる。
「あ、待って、久瀬さんっ」
俺は行かないといけないんだ。十二時まで行かないと。菅尾さんのところへ行かないといけない。行って、貴方の邪魔にならないように、しないと。
あの人は俺を欲しがっているけれど、愛してるわけじゃない。コレクションしたいだけ、所有欲を駆り立てられたからなだけ。だから、今行かないといけないんだ。じゃないとあの男の気が変わってしまう。
「久瀬さんっ、待って、もう、俺っ」
貴方を守れなくなってしまう。
「お前は、俺の猫だろ」
「っ」
そうだよ。あんたの猫だ。あんただけの黒猫で、他の誰にもなびかない。誰のことも愛さないし、愛されたいと思ってない。
だから、ここから出て行かないといけないんだ。
ここにいたら、もうあんなふうにさ、静かに執筆できないかもしれない。
周りが権利だ、罪だって、騒ぎ立てて、貴方の文章を踏みつけるかもしれない。この大事な指を折りにくるかもしれないんだ。
そんなことさせない。
「なぁ……クロ」
指先が冷たかった。久瀬さんにバレないようにそっと、そっと抜け出そうと緊張していたからか、氷みたいに冷たくて、もう行かないといけないと何かを掴むように伸ばした手、指がかじかんでた。
「クロ」
「……ぁ」
その冷たく凍った手に、あったかいものが重なる。
「クロ」
かじかんでシーツを掴むのすら下手な指先に、あったかいこの人の手が、触れる。
「お前の名前は?」
「……っ」
クライミングをしていた時、冷たいストーンに必死にしがみついていた。冷たくて、硬くて、指先が感じるのは痛みばかりだったけど、久瀬さんの小説を読んでる時はあったかかったんだ。
「俺、の……名前は」
今、行かないと、貴方を守れない。
今、この手で貴方を突き放して、あっちへ行かないと、貴方から大事なものを奪ってしまう。
「俺の名前、は……クロ、だよ」
けど、貴方の手が温かくて、文字を綴る宝物のようなその指が一生懸命、俺をあっためてくれるから。
「クロ、だよっ」
俺は泣きじゃくりながら、その指にしがみついた。
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